PROFILE
飯田幸彦(Yukihiko Iida)
株式会社アイテックジャパン(itecjapan Co.Ltd.)および株式会社アイテックジャパン ホールディングス(itecjapan holdings Co.Ltd.)代表取締役。
日本大学芸術学部出身。
大学では「発想・創造(ゼロから生む)、表現(手段)」ということをテーマにした授業が多く、映画作りも1つの表現手段だった。
また、それをさらに突っ込んだ「ゼロ発想を独自の方法で表現」というゼミがあった。表現手段は、絵、一人語り、歌、踊り、文章、、何でもよかった。必須なのはとにかくユニークの追求。なので前回と少しでも違うとXをもらってしまう。
毎回ゼロから生み出すのは想像以上に苦しく中には泣き出す人も。が、自分は、自己満足※でよいというベースがあったのでとても楽しかった。
※これは後に「デザイン(ビジネス)」は自己満足では全く通用しない「問題解決」が重要ということを逆説的に知ることになる。
その後、映画製作関連業務に従事したが、実はこの業務が今の仕事に非常に役に立っていたと思う。IT関連ビジネスは、超専門職の役割分担をはっきりと決めながらもチームプレイを大切に1つのものに集中して向かう映画作りに非常によく似ているからである。
しかし、残念ながら映画では食べてゆくことが出来ず、一時期ある教育システム関連企業に温情で就職させていただいた。何もわからない若者が、授業料を支払うどころか毎月給料を頂戴しながら会社という人間学校でいろいろと学ぶことができたことに、とても感謝している。
【人生観を変えた出来事】
20代後半、突風によりウィンドのボードから体が飛ばされ、どんどん沖に流されたことがあった。
360度、水平線しか見えない大海原まで流され、水を飲み、浮き沈みをくりかえし、ついに体力の限界を迎えた。本当にこのまま誰にも知られずに死ぬのか、、想像を絶する恐怖に襲われた。
「もう何も望まない、だからわずかでもいい、息がしたい。息だけでいい」それだけを願った。しかし、しだいに体の力が抜けてゆき、暗黒の海に沈んでいった。
それは遠のく意識の中だった、自分が小1のときに亡くなった母親が現れ、沈んでゆく自分をただじっと見ていた。
長時間が過ぎたと思う、意識が戻ると自分は虫の息で岸に打ち上げられていた。
若くして死んだ母が自分に伝えたいことは何だったんだろう。日々そう思いながら生きていた。
と、いつの間にか、一度死んだこの身が世の中の為にならないものかと真剣に思うようになっていった。その精神は不思議なことに今でも全く変わっておらず、全ての自分の行動の基本になっている。
【業務略歴】
1986年
世の中の役に立ちたいと強く思っていながらも目標がみつからず悶々としてるときに、ソフト開発の面白さと素晴らしさに出会い、完全な独学でソフトの開発を始める。
1987年
株式会社飯田商会ディジタルコミュニケーションズ(現・株式会社アイテックジャパン)を設立、代表取締役に就任。企業・法人専用のパソコンスクールを運営。MS-DOS,UNIXの講師も兼任した。
1994年
インターネットの時代が到来し、英国でレンタルサーバ業を開始。
1995年
ある優秀なインターネット技術者の「私はしゃべることが出来ないんです」というメールでの告白をきっかけに、ハンディをものともしないインターネットこそ人類が作り出した偉大なる環境と確信、この環境に全てをかけてみようと思う。いまだにインターネットはメディアではなく公平な環境だと信じている。
この年からある大企業のシステム運用代行のご依頼をいただく。
1996年
抜きん出たサーバ関連技術者管理者達を徹底的に探し始め、どんどん契約していった。企業専門の専用サーバカスタマイズを中心とした「OSMS」のサービスを開始し、暗号化(KPS)によるWeb上のカード決済を可能にした仮想都市「HERE」(Easy Internet Association 第一号推奨技術認定 ◆日本、特許:第1984390号 ◆米国、Patent Number:5,016,276 ◆欧州、Patent Number:0277247)の実験に参加した。
この「HERE」はインターネット上に実際に存在する3Dの街を作ってゆくというコンセプトで、当時は接続環境が悪い為、会員にCDを配り動的データのみに当時普及しはじめたhttpsを使った。
1997年
天才学生滝花と出会うことが、ASP開発に力を入れるきっかけとなった。
今でも以前にもまして滝花は素晴らしいパートナーであり、スマートブレインも滝花が回している。最初の面接で滝花を落としていたのだから、運命とはわからないものである。
1998年
ITビジネスや開発プロジェクトを回す事は、専門職の役割分担をはっきりと決めながらチームプレイを大切に1つのものを作り上げてゆく映画作りに似ていることを発見、この仕事は自分の天職と勝手に考えるようになる。
1999年
インターネットをはじめて利用する子供達の為にセキュリティやモラルを段階を経た制限付きで学習が出来るASPシステム「インターネット教習所」を開発し、かつて仕事のなかった自分の修行を買って出てくれた会社でご採用及び全国発売をしていただいた。そのお陰で全国の中学校の授業で扱っていただくことが出来た。
1995年の経験以来、今でもインターネットを使う子供達を守るためには「技術(仕組み)」と「教育(モラル)」が必須だと思っている。この年から携帯CMSを開発する。
2000年
グループウェア「e-秘書」を開発し、携帯からも使えるようにする。
アスキーのネットワークプロという月刊誌に「企業専用サーバ」として弊社を取り上げていただき、その後企業からのサーバご発注が増えセキュアサーバのカスタマイズ案件が多くなって行った。同時に数々のインターネット関連特許の申請を開始する。
この年「東京大学出版会」とシステムの共同開発を行い、一時、籍を置き関係はその後も続く。
2001年
携帯関連の開発も増えだし、携帯専用ASPツール「.K2(ケータイ通信局)」の開発を「個と瞬間を感じるツール」のコンセプトのもと開始する。
2002年
「.K2」を徹底的に発展させた携帯専用高機能ASPツール「KAM(ケイタイ・アド・マーケティング)」の開発を開始。開発環境はJavaベースから「SAB(スマート・アーキテクチャ・ベースメント)」というセキュアサーバ構築との親和性を追求した弊社独自のフレームワークに変更してゆく。コンセプトは「ユビキタス社会到来時に必須のツール」。
2003年
「KAM」のOEM販売が好調で、各社のオリジナルシステムとして順調にアカウント数を伸ばしてゆくとともに、数多くのセキュリティシステムを開発する。
2004年
データセンターに弊社独自セキュリティ設備及びアプライアンスを多数導入。大企業からも、企業専用セキュアサーバとしてitecjapanをご指定いただく発注が増えてくる。
2005年
KAMの新機能を続々と追加し、セキュアサーバとKAMとの連携をますます密にしていった。
2006年
VPSL(バーチャル・プライベート・セキュア・ライセンス)開発開始。サーバ管理やアカウント管理の常識を覆す。
2007年
携帯ASPの中で最多のアカウント数(日経調べ)のご発注をいただくようになり、機能も200種類以上に増え、提供方法もASPからSaaSへと変更(直販はなくOEMのみで提供)。同時にバックヤードである企業専用セキュアサーバの構築管理にも今まで以上に力を入れるようになる。
2008年
世界規模のビッグプロジェクトや公式イベントなどの非常にクリティカルな案件のご発注が増えてくる。
SaaSやサーバのセキュリティ対策への投資を増やし、サイバーポリス様などとのやり取りもあり脆弱性検査の結果も非常によく大変感謝している。ちなみに実被害の90%を占めるといわれる各インシデントの全項目において脆弱性ゼロという検査結果をいただいた。これらの実績によりお客様が少しでも満足してご利用くださるきっかけになればと社員一同考えている。
2009年
KAMのマルチデバイス対応が完成し、1つのデータを、携帯全キャリア全機種、PC、iPhone、アンドロイド、デジタルサイネージに自動変換する究極のCMSが完成する。また、管理体制を評価していただきOSMSのご発注も増え、本当にありがたい気持ちでいっぱいになる。一時もこの気持ちを忘れずに精進してゆきたいと思っている。
2010年
2009年から世間を騒がせているガンブラー(Gumblar)対策をOSMS(オーナー・セキュリティ・マネージメント・サーバ)にも反映させた。また、KAM(ケータイ・アド・マーケティング)のデジタルサイネージ対応も格段に進み、クラウド・サイネージ&モバイルとしてお問い合わせがとても増えてきている。大変ありがたく心から皆様へ心からお礼を申し上げたい。本当にありがとうございます。
2011年
万が一データセンターが地震や津波などで崩壊・水没しても、自動的に富山県のデータセンター内同期サーバに切り替わる【ODM】も、ある超大手建設会社様でご採用いただいた。(ちなみに富山県は本州で一番地震や災害が少ない県)
このように開発を進めることが出来るのも大切な社員達のお陰、そしてなによりも弊社を支えていただけるお客様のお陰である。この感謝の気持ちだけはどんな時にも忘れることはないとあらためて自分の気持ちを確認する昨今である。
2012年〜2016年
インターネットを介した数々の攻撃が増えてきた時期でもある。弊社では専用サーバではありながらも、可能な限りのセキュリティアプライアンスを設置し、しかし単にアプライアンスに頼るのではなく、やはり細々とした設定確認や詳細な管理を日々続ける、とにかく続ける。この姿勢をどんな状況でも貫くことが何よりも重要、と再認識しているここ数年である。
2017年
代表取締役社長を辞任し代表取締役会長に就任。
飯田の出身が技術系ではなかったことはコンプレックスの一つだった。しかし、弊社の技術者達はそれを差し引いても余るほどの優秀さだった。彼らに何とか報いたいという気持ちが日々強くなっていった。また、社長職にしがみつくのはどうしても避けたかった。
そうなると通常のように自分の親族を後継者に推すことも出来たし事実候補もいた。しかし、それはしたくなかった。また、万が一の事象を考えると、いくら今が健康でも、年齢(今年2017年で61歳)のことは考慮が必要。今、突然自分が死んだら、、、。何があってもお客様にご迷惑をおかけしてはならない。悩んだ。悩み続けた、、、。
弊社を以前よりもさらに技術寄りの会社にすること、すべてのお客様に「任せて安心」と心から思っていただくこと、また自分の最大の仕事である事業継続・事業継承、どれも重要な業務である、後継者選定を急がざる得ない。
熟慮の結果、技術部長だった安達を後継者に推すことを決定した。彼は、なにがあっても公正公平で圧倒的な正義感の持ち主、なんといっても「任せて安心」が染みついている。またサーバ管理の実力もスバ抜けているため、技術者達も安心だろう。
そこで1月31日の株主総会において安達を代表取締役社長へ、同時に飯田は代表取締役社長から代表取締役会長へと決定した。
さぁこれから次の勝負が始まる。何としてもお客様から「最近のitecjapanは益々よくなったね」と言っていただく責任がある。そうしないと当時、世の中の役に立ちたいと起業した意味がなくなってしまう。
【現在の心境】
数ある事業者の中から当時全く無名だった弊社をご指定くださり今もご契約を増やしてくださっているお客様、日本を代表する数々の大企業の方々、本当に感謝の気持ちで一杯です。
もちろん、弊社理念のもと数々の優秀なスタッフ達が集まってくれ、厳しい業務の中で確実に成長してくれていることへ感謝の気持ちも。
結果的に自分自身が世の中の役にたつことが出来なかったとしても、こうして生かされていることにほんの少しでも意味があるとすれば。アイテックジャパンのスタッフ達がお客様から「任せて安心」と言っていただけるとすれば、もうこれ以上の喜びはありません。
株式会社アイテックジャパン 飯田幸彦