■■欧州・日本・米大陸、および世界通史に関する忘備録■■
■■戦争における記憶の風化と映画■■
■■個人的な自己紹介と映画について(古い内容)■■
◆世界を変えた「統帥権の独立」とその影響で起こった事象
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
鎌倉幕府成立から大政奉還まで、およそ700年続いた武家社会の日本が大きく変わった事象として、幕末・維新・岩倉使節団(ここでプロイセンの統帥権独立を日本に)・大日本帝国憲法・日清戦争・日露戦争・満州事変・日中戦争・太平洋戦争・沖縄戦・原爆投下・敗戦、、、があります。
これらの中で日本と世界に大きな影響を与えたものが【統帥権の独立】だと思っています。
そこで【統帥権の独立】が影響したと考えられる日本の歴史的事象(十五年戦争関連)と、世界史の転換点を挙げてみます。
特に日本の統帥権の独立は、世界でも例を見ないほど強固なもので、それは引用元のプロイセンをはるかに凌ぐものだったようです。
その統帥権の独立が「軍部による政治統制・介入の拒否の武器」となり、軍部は政府のコントロールを受けずに行動できる体制になりました。つまり政府を無視して勝手に戦争を行える強力な権力です。
軍部が「天皇の大権」を盾にして政治的主導権を握る構図が生まれたともいえるでしょう。
さらに、陸・海軍大臣を現役の軍人に限定することで、軍部の政治介入が強化されました。
まず、日本が統帥権の独立の影響で起こした「満州事変」の影響について具体例を記載します。
◆日本が満州事変で不戦条約※を破ったことは、「国際協調主義の崩壊」を招きました。
※破ったのは、戦争を違法とした史上初の多国間条約です。皮肉なことに、この不戦条約(ケロッグ=ブリアン条約)は、後の日本国憲法の「戦争の放棄」(第9条)に影響を与えたとされています。
第一次世界大戦後、世界は国際連盟や不戦条約などを通じて、国際協調による平和維持体制を築こうとしていました。
実際、この時期の国際社会は「人類史上、これほどまでに平和な時代はなかった」とまで言われています。
この発言は、イギリスの政治家アーサー・ヘンダーソン(1931年に国際連盟軍縮会議議長、ノーベル平和賞受賞者)が公的に述べたものです。
しかし、その直後(同じく1931年の)満州事変は、日本が国際協調主義を公然と破り、武力で自国の利益を追求した最初の大きな事例でした。
関東軍は政府の意向を無視して独断で行動し、満州全域を占領しました。このことが国際連盟の権威失墜と不戦条約の無力さを世界に示すことになりました。
その後、日本は満州事変をめぐる国際的な批判に反発し、1933年に国際連盟を脱退します。日本のこれらの行動は、後にドイツ(ナチス)やイタリア(ファシスト)も国際的約束を破り、武力で領土拡大を図る「悪しき前例」となりました。
ヒトラーも日本の行動を見て「国際連盟は無力だ」「武力行使は可能なのだ」と判断します。
日本を真似て国際連盟脱退したと思うと、その後のラインラント進駐、オーストリア併合、チェコスロバキア解体、そしてポーランド侵攻と続き、ついに第二次世界大戦が勃発してしまいます。
あのヒトラーでさえ、当時は不戦条約を考慮して侵攻を控えていたようでした、しかし、その考えを変えさせたのが、、さらに最初のドミノを倒したのが日本だったことは確かなようです。
最近は、第二次世界大戦のきっかけは満州事変だったという歴史学者が増えているようです。
(研究者 細谷雄一)
━━━━━━━━━━━━━━━━
次に、統帥権の独立が影響して起こったと思われる事象を「年代順に」記載します。
やはり始まりは、あまり目立たない「張作霖爆殺事件」でしょう。これは意外という方も多いかもしれませんが。
A. ◆張作霖爆殺事件(1928年)
・概要:
満州軍閥の指導者・張作霖が北京から奉天(現・瀋陽)へ戻る途中、日本の関東軍によって列車ごと爆殺された事件です。
一般的に満州事変が目立っており事実、不戦条約を破った影響は計り知れません。
しかし、張作霖爆殺事件で関東軍の責任追及をしなかったことで、関東軍は「独断で行動しても処罰されない」という前例を得てしまいます。これが満州事変はじめ後の関東軍の暴走につながった可能性が非常に高いと考えています。
この事件は軍部の統制や政府の責任体制の弱さを象徴する出来事であり、日本の対外政策の転換点になりました。
・統帥権独立との関係:
関東軍は、天皇の大権である統帥権が政府と独立されてることを背景に、政府の指示や意向を無視して独自に行動できる体制にありました。田中義一内閣は関東軍の暴走を止めようと画策しましたが、結局、この制度のために止められませんでした。
・死者数:
張作霖本人とその随行員など、列車の爆破により20人前後が死亡しました。(諸説あり)
・もし統帥権独立がなく文民統制が機能していれば:
本来、政府が軍の行動を厳しく統制できていたはずで、関東軍による独断的な謀略は防げた可能性が非常に高かったと思われます。
結果として中国との関係悪化や満州事変、その後、以下に記載した数々の事象・戦争を回避できた可能性が非常に高い事件でした。
━━━━━━━━━━━━━━━━
B.◆満州事変(1931年)
・概要:
関東軍が独断で柳条湖事件を起こし、満州全域を占領します。
きっかけは、世界恐慌のあおりで生糸やシルクがアメリカに売れなくなってしまい、資源を満州に求めたためです。
また、日露戦争で20億円を支払って得た利権(日本の生命線)とも勝手に考えていました。
具体的には、鉄道や鉱山などの経営、ソ連に対する防衛基地、日本の農村からの移民先、そして重化学工業の設備を作り円経済圏の基地にする目的もありました。事変という名称は、本来の侵略行為を隠すための日本がつけた名称でした。
中国は、日本のルール無視の行動(勝手に他人の国を侵略)が許せず国際連盟に助けを求めます。
そこで、国際連盟はリットン調査団※を現地に派遣し、日本軍の満州からの撤退を勧告しました。
※「日本の行動はあきらかな侵略であり、満州国は認められない」とする報告書。
それが日本の国際連盟脱退につながり、ドイツ・イタリアもそれに続くことになり影響は広がります。
・統帥権独立との関係:
日本政府は他国への拡大をしない方針を決定していましたが、それを無視して関東軍が独自に行動。統帥権独立の関係で政府はこれを止める手段を持ちませんでした。
・死者数:
日中両国合わせて数千〜数万とも(諸説あり)。
・もし統帥権独立がなく文民統制が機能していれば:
満州国建国やその後の日中戦争の引き金は回避されていた可能性が相当、高いと思われます。
特にこの事変の最大の影響は先にも書いた通り、人類が作り出した史上初の「不戦条約」を破り、世界に取り返しのつかない悪影響を与えてしまったことでしょう。
先に書いたように最近の研究では、第二次世界大戦のきっかけは満州事変だった言われることが増えてきました。
━━━━━━━━━━━━━━━━
C.◆五・一五事件(1932年)
・概要:
五・一五事件は、海軍青年将校らによる首相暗殺を含むクーデター事件であり、政党政治の終焉と軍部主導の政治体制への転換点となりました。海軍青年将校らが首相・犬養毅らを暗殺しました。
・統帥権独立との関係:
統帥権の独立を背景に、軍部の独断専行が正当化され、以後の日本の軍国主義化と国際的孤立の流れを決定づけました。
・死者:
犬養毅ら。
・もし統帥権独立がなく文民統制が機能していれば:
軍人の政治的関与が抑えられた可能性は高いと思われます。
━━━━━━━━━━━━━━━━
D.◆国際連盟脱退(1933年)
・概要:
国際連盟総会は、中国からの訴えを受け日本の満州からの撤退を勧告。
きっかけは満州事変と、リットン調査団の調査結果(日本の行動はあきらかな侵略であり、満州国は認められない)です。国際連盟総会では日本軍の満州からの撤退を勧告します。
ところが日本政府はそれに反旗を翻し、3月27日に正式に国際連盟脱退を通告、常任理事国としての地位を自ら放棄して国際的孤立の道を自ら選ぶことになりました。脱退表明は松岡洋右全権によって行われ、議場からの退席という形で国際社会に強い印象を残しました。
それに続いてドイツ・イタリアも脱退し、後の三国同盟の布石なります。
・統帥権独立との関係:
満州事変や国際連盟脱退の背景には、関東軍が政府の統制を受けず独断で軍事行動を起こすという「統帥権の独立」の実態がありました。
軍部の独走や強硬姿勢に政府が引きずられ、外交的妥協が困難となった結果、脱退を選んでしまったわけです。
・もし統帥権独立がなく文民統制が機能していれば:
勧告に従い満州からの撤退していれば、国際的孤立や日中戦争・第二次世界大戦・太平洋戦争への道を避けられた可能性が高いと思われます。
━━━━━━━━━━━━━━━━
E. ◆二・二六事件(1936年)
・概要:
陸軍の青年将校によるクーデター未遂事件。政府要人を殺害、一時、東京の中心部を占拠しました。
1936年(昭和11年)2月26日未明、陸軍皇道派の青年将校約20名が、約1,400〜1,500名の兵を率いてクーデターを起こしました。
彼らは首相官邸・陸軍省・参謀本部・警視庁・国会など永田町・麹町一帯を占拠し、岡田啓介首相や斎藤實内大臣、高橋是清大蔵大臣ら政府要人を襲撃。斎藤・高橋・渡辺錠太郎陸軍教育総監ら9名を殺害しました。特に殺害された斎藤實や高橋是清は、軍縮・協調外交の象徴的存在であり、日本を戦争に進ませないためのブレーキ役を失いました。
青年将校たちの目的は「昭和維新」「国家改造」を掲げ、天皇中心の軍事政権樹立を目指すものでした。
事件発生後、陸軍上層部は対応に揺れましたが、昭和天皇は激怒し、武力鎮圧を命令。最終的に決起部隊は「反乱軍」とされ、投降・帰順しました。首謀者らは軍法会議で死刑判決を受け、処刑されました。
・統帥権独立との関係:
二・二六事件は、軍部(特に皇道派青年将校)が「統帥権の独立」を盾に政府や上官の統制を無視して行動した点で、満州事変や国際連盟脱退と本質的に共通しています。
軍部の独断専行や政府の統制力低下を招き、軍部独裁・戦争への道※が決定的になりました。
※事件を起こしたのは、国家改造を志向した陸軍の若手将校たちと、彼らに率いられた下士官・兵士たち。彼らの多くは農村出身、農村の困窮や社会の矛盾を目の当たりにしていた行動でした。
しかし、事件後に陸軍内の皇道派が一掃され、統制派が実権を握った結果、陸軍が内閣の人事に強く介入、内閣の生殺与奪の権までも握るようになり、日本は軍部独裁体制へと進んでいきました。
・死者:
官僚・政治家ら十数名。
・もし統帥権独立がなく文民統制が機能していれば:
クーデターを事前に抑止し、軍部独裁政権確立を防げた可能性は高いと思われます。
━━━━━━━━━━━━━━━━
F. ◆日中戦争・大東亜戦争(1937年〜1945年)
・概要:
盧溝橋事件をきっかけに全面戦争(日中戦争)に発展し、日本の敗戦まで続きました。
日本は満州国を建国していましたが、もっと多くの資源を求めたいと考えていました。
その具体的な方法は、1937年7月7日に北京郊外の盧溝橋で発生した日本軍と中国軍の武力衝突です。この事件を契機に、日中両国の全面的な戦争へと発展しました。
日本軍は北京・天津を占領し、戦線は上海、南京、華北・華中へと拡大。南京では「南京事件」と呼ばれる大規模な虐殺も発生したと言われています。戦争は泥沼化し、長期戦となりました。
すると、当時、中国国内で反発しあっていた国民党の蒋介石と、共産党の毛沢東が手を結び、共に日本を倒そうと「第二次国共合作」で手を組みました。国際社会も日本の侵略を非難し、アメリカやイギリスは日本への経済制裁を強化しました。
・統帥権独立との関係:
統帥権の独立という制度的背景によって当該戦争は正当化され、政府の統制力はさらに大きく減退しました。
軍事作戦についても、軍が「統帥権の独立」の殻にこもり、政治側と十分な情報共有をしないまま戦争を長期化させ、国際社会との外交的解決の機会も完全に失いました。
・死者数:
日中戦争による死者数は、日本側が約41万人、中国側が軍人だけで130万人以上、民間人を含めるとさらに多く、戦争全体で数百万人規模の犠牲者が出たとも言われています(それぞれ諸説あり)。
・もし統帥権独立がなく文民統制が機能していれば:
そもそもこの戦争もなかったでしょうが、もしあったとしても戦争拡大や防止の可能は高かったと思われます。
━━━━━━━━━━━━━━━━
G. ◆第二次世界大戦(太平洋戦争)(1941年〜1945年)
・概要:
真珠湾攻撃とマレー作戦から始まるアジア太平洋地域の大戦です。
先の日独伊三国同盟の関係から、真珠湾攻撃の4日後にドイツはアメリカへ宣戦布告し、欧州での戦争(ヨーロッパ戦線)に太平洋戦争(日本対アメリカ)が加わり、結果、歴史上最大の戦争に発展します。
少しだけ詳しく:
1941年12月8日、日本軍が真珠湾攻撃とマレー半島侵攻を行い、アメリカ・イギリスなど連合国と全面戦争に突入します。
当初、日本は東南アジア・太平洋地域で急速に領土を拡大しましたが、1942年6月のミッドウェー海戦ですでに暗号を解読されており大敗し、戦局が逆転します。しかし国内では大敗を報道しませんでした。
以降、連合国の反攻が続き、1945年には沖縄戦や本土空襲、原子爆弾の投下、ソ連の対日参戦を経て、日本は8月15日に降伏を決定(敗戦)、9月2日に正式降伏します。
戦後の日本への影響:
日本は連合国軍(GHQ)の占領下に置かれ、日本国憲法制定・民主化・非軍事化などの大改革が進められました。
日本は植民地をすべて失い、アジア各地で独立運動が進展します。
1952年のサンフランシスコ講和条約発効で日本は主権を回復します。
しかし、日米安保体制、地位協定、合同委員会など中には公的に明かされない問題も多く含んでいるようです。
戦後の世界への影響:
アジアの植民地体制が崩壊し、多くの国が独立。
アメリカとソ連の対立が深まり、冷戦構造が形成。
国際連合(国連)創設、戦争犯罪裁判(東京裁判など)が行われ、現代の国際秩序や人権意識の基礎が築かれました。
・統帥権独立との関係:
軍の作戦計画に政府が口出しできず、外交の余地を失って、この戦争に突入しました。
※当時、世界情勢を理解し、戦争拡大を止めようとした元首相、外交官、知識人は多くいました。
吉田茂(外交官・後の首相)、近衛文麿(元首相)を筆頭に、一部の海軍高官や外交官は開戦や戦争継続に反対しました。
しかし、軍部内の統制派や憲兵隊による圧力、監視、左遷、場合によっては更迭や自死に追い込まれることもありました。他にも、反戦活動家・知識人(作家、文化人)など分かっているだけで、警察による拘留も含めると数百万人規模で、中には拷問や獄死者も出ていたようです。
・死者数:
日本人約310万人(うち民間人80万人以上)、アジア全体で2000万(それぞれ諸説あり)。
・もし統帥権独立がなく文民統制が機能していれば:
そもそもこの戦争もなかったでしょうが、もしあったとしても戦争回避の可能性は高く、仮に突発的に起こったとしても限定戦争に抑えられた可能性は高かったと思われます。
━━━━━━━━━━━━━━━━
H. ◆沖縄戦(1945年)
・概要:
本土決戦への時間稼ぎとして、大本営が沖縄を利用し徹底抗戦。
・統帥権独立との関係:
天皇に直属する大本営(軍令部・参謀本部)が統帥権の独立を盾に主導し、現地の第32軍も大本営の方針に従って持久戦を展開しました。
・死者数:
民間人、軍人、外国人を含む「平和の礎」に記載された被害者の刻銘者数は(2025年5月28日現在)なんと242,567人です。(沖縄県Webサイトより)
・もし統帥権独立がなく文民統制が機能していれば:
そもそもこの戦争もなかったでしょうが、もしあったとしても戦闘終結の判断が早まり、犠牲数を大幅に抑えられた可能性は高かったでしょう。
沖縄戦の悲劇は、軍部独走と文民統制の欠如がもたらした典型といえます。
しかし、戦争はまだ終わっておらず、毎日1件以上、多いときは一日6件の「不発弾」が見つかっており、現在までに約4万件の処理が行われています。爆弾の威力は当時のままのため、自衛隊の作業員は遺書を書いて対応しています。今までに不発弾で亡くなった方は700名以上になり、この作業が終わるまであと100年はかかるようです。
・沖縄の核兵器について:
沖縄にはアメリカ統治時代、最大1,300発規模の核兵器が配備されていたようです。
現在の日本政府は非核三原則を堅持するのみ(つまり沖縄に核兵器はない)の対応で、米国は核兵器の有無を名言していません。
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
【統帥権の独立】について、その概要や最近の研究について、歴史素人である僕の考えも交えて僭越ながら書かせていただきます。
上記に書いた通り、統帥権の独立とは、軍の指揮権限(統帥権)が内閣や政府から切り離され、天皇に直属する形で軍部が独自に軍事行動を決定できる制度です。
これは明治時代の参謀本部設置(1878年)や大日本帝国憲法(1889年)によって制度化され、もともとは政党や政治家による軍の私的利用や、軍の政治化を防ぐ目的で導入されました。
しかし、実際にはこの「統帥権の独立」により、政府が軍の行動をコントロールできない構造を生み出しましたとも言えます。
特に昭和期に入ると、軍部が統帥権の「天皇の大権」を盾に政府の意向を無視して独断で行動するようになります。
まずは張作霖爆殺事件を皮切りに、不戦条約を破った満州事変の侵略行為が国際社会に悪影響を与え、日中戦争、第二次世界大戦の前哨戦(欧州戦線)、本格的な第二次世界大戦(太平洋戦争)へと突き進む要因となったとも思えます。
日本の政治体制は軍部優位となり、政党政治や議会制民主主義が形骸化。経済も軍需中心に再編され、国民生活や社会構造も戦時体制へと大きく変質しました。
ところが最近の研究(2025年現在)では「統帥権の独立」だけではなく数々の要因があったとされることが増えてきました。
それは、陸軍の独断専行文化、謀略行動の常態化、組織間のセクショナリズム、政府・軍中央の統制力不足、現地部隊の独自路線、戦略の欠如、責任の押し付け合い、日本の恥の文化、刷り込まれた日本精神、、、といった複合的な要因が、関東軍やその後の日本軍の愚行や暴走の背景にあったと。僕もそれは正しいと思っています。
しかし、そもそも「統帥権の独立」をプロイセンから導入しなければ、それらの事象も特に起き得なかったというのが歴史の素人である僕の考えです。
特に張作霖爆殺事件がきっかけで(関東軍の愚行悪行を政府が止められず、なにをしても罰せられない前例を作ったしまった事が)その後の事変・戦争へ突入させた影響は大きかったかと。
さらに「制度より文化」「権限よりも空気」という日本独自の民族性が後押しし「統帥権の独立」の悪用が強まっていった思えてなりません。
この考えが間違っていましたら、どうかご教授いただけますとありがたいです。
◆統帥権独立の特異性(対:他国)
上記の通り、大日本国憲法下の日本では、軍の作戦・用兵に関する「統帥」は内閣や議会から完全に独立し、天皇に直属する制度が確立されていました。
参謀本部や軍令部といった統帥機関は、首相や政府の指示を受けず、軍事行動の決定権を独占していました。首相ですら軍の作戦計画の詳細を把握できず、戦争指導に大きな制約が生じました。
一方、他国では、軍は政府・議会から独立しており、制度的に分断されていたケースはほぼありませんでした。多くの国では、戦時には政府首脳や議会が軍の指揮に一定の影響力を持ち、戦略と政治の統合が図られていました。
現代のアメリカ、イギリスなどの欧米諸国では、軍の最高指揮権は大統領や首相などの文民が持ち、軍自体は政府の統制下(シビリアン・コントロール)にあります。これにより、軍事行動と国家戦略・外交が一体的に運用されています。(研究者 山田邦夫)
◆今回まとめてみて個人的に思ったことは
「先進国で学んだからといって、自分の国がよくなるとは限らない、自国には自国のやり方がある」
という中村哲医師の言葉でした。
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
◆最後に個人的なことを書かせていただきます。
僕の父は特攻隊の生き残りでした。
晩ねんはボケてしまい妻(僕の母)の顔さえ分からなくなってしまいまっても当時、先に飛んで散った戦友の写真を見ては、いつも同じ言葉を口にしていました。その声はだんだんと大きくなってゆき最後は嗚咽、、それを繰り返していました。自分がこうして生きていることを懺悔するように。
残念ながらボケてしまってなんと言っているかは分かりませんでしたが、分からないまま他界してしまいました。
隣に住んでいた叔父は、南方戦線で命からがら何とか生きて戻ってきましたが、その影響が最後まで抜けていないことが叔父の話から分かりました。
叔父が寝ようとすると、顔の上を「シュッ」という弾丸の空気をつんざく音が次々に聞こえてくる話。
隣の戦友はヘルメットを撃ち抜かれ、頭蓋骨の中を弾丸がぐるぐる回って即死した話。
爆弾で腕や足が吹き飛んで「殺してくれ」と懇願していた戦友の話。
話をしていた時に、顔からウジが湧いてきた戦友の話。
帰国後いっさい笑わなくなり自死した戦友の話。他にも数々。
中学校の時の歴史の先生の話。
中学の歴史の先生が授業中に突然、自分が戦地でしてしまったことを涙ながらに告白されたことがあります。
これはあまりにも残酷過ぎて、、だいぶ悩んだ挙句、ここに書くのは控えることにします。
また、僕が大学生の頃、お盆の集まりの時に親族から言われたことがあります。
■■戦争における記憶の風化と映画■■
■■個人的な自己紹介と映画について(古い内容)■■
◆世界を変えた「統帥権の独立」とその影響で起こった事象
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
鎌倉幕府成立から大政奉還まで、およそ700年続いた武家社会の日本が大きく変わった事象として、幕末・維新・岩倉使節団(ここでプロイセンの統帥権独立を日本に)・大日本帝国憲法・日清戦争・日露戦争・満州事変・日中戦争・太平洋戦争・沖縄戦・原爆投下・敗戦、、、があります。
これらの中で日本と世界に大きな影響を与えたものが【統帥権の独立】だと思っています。
そこで【統帥権の独立】が影響したと考えられる日本の歴史的事象(十五年戦争関連)と、世界史の転換点を挙げてみます。
特に日本の統帥権の独立は、世界でも例を見ないほど強固なもので、それは引用元のプロイセンをはるかに凌ぐものだったようです。
その統帥権の独立が「軍部による政治統制・介入の拒否の武器」となり、軍部は政府のコントロールを受けずに行動できる体制になりました。つまり政府を無視して勝手に戦争を行える強力な権力です。
軍部が「天皇の大権」を盾にして政治的主導権を握る構図が生まれたともいえるでしょう。
さらに、陸・海軍大臣を現役の軍人に限定することで、軍部の政治介入が強化されました。
まず、日本が統帥権の独立の影響で起こした「満州事変」の影響について具体例を記載します。
◆日本が満州事変で不戦条約※を破ったことは、「国際協調主義の崩壊」を招きました。
※破ったのは、戦争を違法とした史上初の多国間条約です。皮肉なことに、この不戦条約(ケロッグ=ブリアン条約)は、後の日本国憲法の「戦争の放棄」(第9条)に影響を与えたとされています。
第一次世界大戦後、世界は国際連盟や不戦条約などを通じて、国際協調による平和維持体制を築こうとしていました。
実際、この時期の国際社会は「人類史上、これほどまでに平和な時代はなかった」とまで言われています。
この発言は、イギリスの政治家アーサー・ヘンダーソン(1931年に国際連盟軍縮会議議長、ノーベル平和賞受賞者)が公的に述べたものです。
しかし、その直後(同じく1931年の)満州事変は、日本が国際協調主義を公然と破り、武力で自国の利益を追求した最初の大きな事例でした。
関東軍は政府の意向を無視して独断で行動し、満州全域を占領しました。このことが国際連盟の権威失墜と不戦条約の無力さを世界に示すことになりました。
その後、日本は満州事変をめぐる国際的な批判に反発し、1933年に国際連盟を脱退します。日本のこれらの行動は、後にドイツ(ナチス)やイタリア(ファシスト)も国際的約束を破り、武力で領土拡大を図る「悪しき前例」となりました。
ヒトラーも日本の行動を見て「国際連盟は無力だ」「武力行使は可能なのだ」と判断します。
日本を真似て国際連盟脱退したと思うと、その後のラインラント進駐、オーストリア併合、チェコスロバキア解体、そしてポーランド侵攻と続き、ついに第二次世界大戦が勃発してしまいます。
あのヒトラーでさえ、当時は不戦条約を考慮して侵攻を控えていたようでした、しかし、その考えを変えさせたのが、、さらに最初のドミノを倒したのが日本だったことは確かなようです。
最近は、第二次世界大戦のきっかけは満州事変だったという歴史学者が増えているようです。
(研究者 細谷雄一)
━━━━━━━━━━━━━━━━
次に、統帥権の独立が影響して起こったと思われる事象を「年代順に」記載します。
やはり始まりは、あまり目立たない「張作霖爆殺事件」でしょう。これは意外という方も多いかもしれませんが。
A. ◆張作霖爆殺事件(1928年)
・概要:
満州軍閥の指導者・張作霖が北京から奉天(現・瀋陽)へ戻る途中、日本の関東軍によって列車ごと爆殺された事件です。
一般的に満州事変が目立っており事実、不戦条約を破った影響は計り知れません。
しかし、張作霖爆殺事件で関東軍の責任追及をしなかったことで、関東軍は「独断で行動しても処罰されない」という前例を得てしまいます。これが満州事変はじめ後の関東軍の暴走につながった可能性が非常に高いと考えています。
この事件は軍部の統制や政府の責任体制の弱さを象徴する出来事であり、日本の対外政策の転換点になりました。
・統帥権独立との関係:
関東軍は、天皇の大権である統帥権が政府と独立されてることを背景に、政府の指示や意向を無視して独自に行動できる体制にありました。田中義一内閣は関東軍の暴走を止めようと画策しましたが、結局、この制度のために止められませんでした。
・死者数:
張作霖本人とその随行員など、列車の爆破により20人前後が死亡しました。(諸説あり)
・もし統帥権独立がなく文民統制が機能していれば:
本来、政府が軍の行動を厳しく統制できていたはずで、関東軍による独断的な謀略は防げた可能性が非常に高かったと思われます。
結果として中国との関係悪化や満州事変、その後、以下に記載した数々の事象・戦争を回避できた可能性が非常に高い事件でした。
━━━━━━━━━━━━━━━━
B.◆満州事変(1931年)
・概要:
関東軍が独断で柳条湖事件を起こし、満州全域を占領します。
きっかけは、世界恐慌のあおりで生糸やシルクがアメリカに売れなくなってしまい、資源を満州に求めたためです。
また、日露戦争で20億円を支払って得た利権(日本の生命線)とも勝手に考えていました。
具体的には、鉄道や鉱山などの経営、ソ連に対する防衛基地、日本の農村からの移民先、そして重化学工業の設備を作り円経済圏の基地にする目的もありました。事変という名称は、本来の侵略行為を隠すための日本がつけた名称でした。
中国は、日本のルール無視の行動(勝手に他人の国を侵略)が許せず国際連盟に助けを求めます。
そこで、国際連盟はリットン調査団※を現地に派遣し、日本軍の満州からの撤退を勧告しました。
※「日本の行動はあきらかな侵略であり、満州国は認められない」とする報告書。
それが日本の国際連盟脱退につながり、ドイツ・イタリアもそれに続くことになり影響は広がります。
・統帥権独立との関係:
日本政府は他国への拡大をしない方針を決定していましたが、それを無視して関東軍が独自に行動。統帥権独立の関係で政府はこれを止める手段を持ちませんでした。
・死者数:
日中両国合わせて数千〜数万とも(諸説あり)。
・もし統帥権独立がなく文民統制が機能していれば:
満州国建国やその後の日中戦争の引き金は回避されていた可能性が相当、高いと思われます。
特にこの事変の最大の影響は先にも書いた通り、人類が作り出した史上初の「不戦条約」を破り、世界に取り返しのつかない悪影響を与えてしまったことでしょう。
先に書いたように最近の研究では、第二次世界大戦のきっかけは満州事変だった言われることが増えてきました。
━━━━━━━━━━━━━━━━
C.◆五・一五事件(1932年)
・概要:
五・一五事件は、海軍青年将校らによる首相暗殺を含むクーデター事件であり、政党政治の終焉と軍部主導の政治体制への転換点となりました。海軍青年将校らが首相・犬養毅らを暗殺しました。
・統帥権独立との関係:
統帥権の独立を背景に、軍部の独断専行が正当化され、以後の日本の軍国主義化と国際的孤立の流れを決定づけました。
・死者:
犬養毅ら。
・もし統帥権独立がなく文民統制が機能していれば:
軍人の政治的関与が抑えられた可能性は高いと思われます。
━━━━━━━━━━━━━━━━
D.◆国際連盟脱退(1933年)
・概要:
国際連盟総会は、中国からの訴えを受け日本の満州からの撤退を勧告。
きっかけは満州事変と、リットン調査団の調査結果(日本の行動はあきらかな侵略であり、満州国は認められない)です。国際連盟総会では日本軍の満州からの撤退を勧告します。
ところが日本政府はそれに反旗を翻し、3月27日に正式に国際連盟脱退を通告、常任理事国としての地位を自ら放棄して国際的孤立の道を自ら選ぶことになりました。脱退表明は松岡洋右全権によって行われ、議場からの退席という形で国際社会に強い印象を残しました。
それに続いてドイツ・イタリアも脱退し、後の三国同盟の布石なります。
・統帥権独立との関係:
満州事変や国際連盟脱退の背景には、関東軍が政府の統制を受けず独断で軍事行動を起こすという「統帥権の独立」の実態がありました。
軍部の独走や強硬姿勢に政府が引きずられ、外交的妥協が困難となった結果、脱退を選んでしまったわけです。
・もし統帥権独立がなく文民統制が機能していれば:
勧告に従い満州からの撤退していれば、国際的孤立や日中戦争・第二次世界大戦・太平洋戦争への道を避けられた可能性が高いと思われます。
━━━━━━━━━━━━━━━━
E. ◆二・二六事件(1936年)
・概要:
陸軍の青年将校によるクーデター未遂事件。政府要人を殺害、一時、東京の中心部を占拠しました。
1936年(昭和11年)2月26日未明、陸軍皇道派の青年将校約20名が、約1,400〜1,500名の兵を率いてクーデターを起こしました。
彼らは首相官邸・陸軍省・参謀本部・警視庁・国会など永田町・麹町一帯を占拠し、岡田啓介首相や斎藤實内大臣、高橋是清大蔵大臣ら政府要人を襲撃。斎藤・高橋・渡辺錠太郎陸軍教育総監ら9名を殺害しました。特に殺害された斎藤實や高橋是清は、軍縮・協調外交の象徴的存在であり、日本を戦争に進ませないためのブレーキ役を失いました。
青年将校たちの目的は「昭和維新」「国家改造」を掲げ、天皇中心の軍事政権樹立を目指すものでした。
事件発生後、陸軍上層部は対応に揺れましたが、昭和天皇は激怒し、武力鎮圧を命令。最終的に決起部隊は「反乱軍」とされ、投降・帰順しました。首謀者らは軍法会議で死刑判決を受け、処刑されました。
・統帥権独立との関係:
二・二六事件は、軍部(特に皇道派青年将校)が「統帥権の独立」を盾に政府や上官の統制を無視して行動した点で、満州事変や国際連盟脱退と本質的に共通しています。
軍部の独断専行や政府の統制力低下を招き、軍部独裁・戦争への道※が決定的になりました。
※事件を起こしたのは、国家改造を志向した陸軍の若手将校たちと、彼らに率いられた下士官・兵士たち。彼らの多くは農村出身、農村の困窮や社会の矛盾を目の当たりにしていた行動でした。
しかし、事件後に陸軍内の皇道派が一掃され、統制派が実権を握った結果、陸軍が内閣の人事に強く介入、内閣の生殺与奪の権までも握るようになり、日本は軍部独裁体制へと進んでいきました。
・死者:
官僚・政治家ら十数名。
・もし統帥権独立がなく文民統制が機能していれば:
クーデターを事前に抑止し、軍部独裁政権確立を防げた可能性は高いと思われます。
━━━━━━━━━━━━━━━━
F. ◆日中戦争・大東亜戦争(1937年〜1945年)
・概要:
盧溝橋事件をきっかけに全面戦争(日中戦争)に発展し、日本の敗戦まで続きました。
日本は満州国を建国していましたが、もっと多くの資源を求めたいと考えていました。
その具体的な方法は、1937年7月7日に北京郊外の盧溝橋で発生した日本軍と中国軍の武力衝突です。この事件を契機に、日中両国の全面的な戦争へと発展しました。
日本軍は北京・天津を占領し、戦線は上海、南京、華北・華中へと拡大。南京では「南京事件」と呼ばれる大規模な虐殺も発生したと言われています。戦争は泥沼化し、長期戦となりました。
すると、当時、中国国内で反発しあっていた国民党の蒋介石と、共産党の毛沢東が手を結び、共に日本を倒そうと「第二次国共合作」で手を組みました。国際社会も日本の侵略を非難し、アメリカやイギリスは日本への経済制裁を強化しました。
・統帥権独立との関係:
統帥権の独立という制度的背景によって当該戦争は正当化され、政府の統制力はさらに大きく減退しました。
軍事作戦についても、軍が「統帥権の独立」の殻にこもり、政治側と十分な情報共有をしないまま戦争を長期化させ、国際社会との外交的解決の機会も完全に失いました。
・死者数:
日中戦争による死者数は、日本側が約41万人、中国側が軍人だけで130万人以上、民間人を含めるとさらに多く、戦争全体で数百万人規模の犠牲者が出たとも言われています(それぞれ諸説あり)。
・もし統帥権独立がなく文民統制が機能していれば:
そもそもこの戦争もなかったでしょうが、もしあったとしても戦争拡大や防止の可能は高かったと思われます。
━━━━━━━━━━━━━━━━
G. ◆第二次世界大戦(太平洋戦争)(1941年〜1945年)
・概要:
真珠湾攻撃とマレー作戦から始まるアジア太平洋地域の大戦です。
先の日独伊三国同盟の関係から、真珠湾攻撃の4日後にドイツはアメリカへ宣戦布告し、欧州での戦争(ヨーロッパ戦線)に太平洋戦争(日本対アメリカ)が加わり、結果、歴史上最大の戦争に発展します。
少しだけ詳しく:
1941年12月8日、日本軍が真珠湾攻撃とマレー半島侵攻を行い、アメリカ・イギリスなど連合国と全面戦争に突入します。
当初、日本は東南アジア・太平洋地域で急速に領土を拡大しましたが、1942年6月のミッドウェー海戦ですでに暗号を解読されており大敗し、戦局が逆転します。しかし国内では大敗を報道しませんでした。
以降、連合国の反攻が続き、1945年には沖縄戦や本土空襲、原子爆弾の投下、ソ連の対日参戦を経て、日本は8月15日に降伏を決定(敗戦)、9月2日に正式降伏します。
戦後の日本への影響:
日本は連合国軍(GHQ)の占領下に置かれ、日本国憲法制定・民主化・非軍事化などの大改革が進められました。
日本は植民地をすべて失い、アジア各地で独立運動が進展します。
1952年のサンフランシスコ講和条約発効で日本は主権を回復します。
しかし、日米安保体制、地位協定、合同委員会など中には公的に明かされない問題も多く含んでいるようです。
戦後の世界への影響:
アジアの植民地体制が崩壊し、多くの国が独立。
アメリカとソ連の対立が深まり、冷戦構造が形成。
国際連合(国連)創設、戦争犯罪裁判(東京裁判など)が行われ、現代の国際秩序や人権意識の基礎が築かれました。
・統帥権独立との関係:
軍の作戦計画に政府が口出しできず、外交の余地を失って、この戦争に突入しました。
※当時、世界情勢を理解し、戦争拡大を止めようとした元首相、外交官、知識人は多くいました。
吉田茂(外交官・後の首相)、近衛文麿(元首相)を筆頭に、一部の海軍高官や外交官は開戦や戦争継続に反対しました。
しかし、軍部内の統制派や憲兵隊による圧力、監視、左遷、場合によっては更迭や自死に追い込まれることもありました。他にも、反戦活動家・知識人(作家、文化人)など分かっているだけで、警察による拘留も含めると数百万人規模で、中には拷問や獄死者も出ていたようです。
・死者数:
日本人約310万人(うち民間人80万人以上)、アジア全体で2000万(それぞれ諸説あり)。
・もし統帥権独立がなく文民統制が機能していれば:
そもそもこの戦争もなかったでしょうが、もしあったとしても戦争回避の可能性は高く、仮に突発的に起こったとしても限定戦争に抑えられた可能性は高かったと思われます。
━━━━━━━━━━━━━━━━
H. ◆沖縄戦(1945年)
・概要:
本土決戦への時間稼ぎとして、大本営が沖縄を利用し徹底抗戦。
・統帥権独立との関係:
天皇に直属する大本営(軍令部・参謀本部)が統帥権の独立を盾に主導し、現地の第32軍も大本営の方針に従って持久戦を展開しました。
・死者数:
民間人、軍人、外国人を含む「平和の礎」に記載された被害者の刻銘者数は(2025年5月28日現在)なんと242,567人です。(沖縄県Webサイトより)
・もし統帥権独立がなく文民統制が機能していれば:
そもそもこの戦争もなかったでしょうが、もしあったとしても戦闘終結の判断が早まり、犠牲数を大幅に抑えられた可能性は高かったでしょう。
沖縄戦の悲劇は、軍部独走と文民統制の欠如がもたらした典型といえます。
しかし、戦争はまだ終わっておらず、毎日1件以上、多いときは一日6件の「不発弾」が見つかっており、現在までに約4万件の処理が行われています。爆弾の威力は当時のままのため、自衛隊の作業員は遺書を書いて対応しています。今までに不発弾で亡くなった方は700名以上になり、この作業が終わるまであと100年はかかるようです。
・沖縄の核兵器について:
沖縄にはアメリカ統治時代、最大1,300発規模の核兵器が配備されていたようです。
現在の日本政府は非核三原則を堅持するのみ(つまり沖縄に核兵器はない)の対応で、米国は核兵器の有無を名言していません。
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
【統帥権の独立】について、その概要や最近の研究について、歴史素人である僕の考えも交えて僭越ながら書かせていただきます。
上記に書いた通り、統帥権の独立とは、軍の指揮権限(統帥権)が内閣や政府から切り離され、天皇に直属する形で軍部が独自に軍事行動を決定できる制度です。
これは明治時代の参謀本部設置(1878年)や大日本帝国憲法(1889年)によって制度化され、もともとは政党や政治家による軍の私的利用や、軍の政治化を防ぐ目的で導入されました。
しかし、実際にはこの「統帥権の独立」により、政府が軍の行動をコントロールできない構造を生み出しましたとも言えます。
特に昭和期に入ると、軍部が統帥権の「天皇の大権」を盾に政府の意向を無視して独断で行動するようになります。
まずは張作霖爆殺事件を皮切りに、不戦条約を破った満州事変の侵略行為が国際社会に悪影響を与え、日中戦争、第二次世界大戦の前哨戦(欧州戦線)、本格的な第二次世界大戦(太平洋戦争)へと突き進む要因となったとも思えます。
日本の政治体制は軍部優位となり、政党政治や議会制民主主義が形骸化。経済も軍需中心に再編され、国民生活や社会構造も戦時体制へと大きく変質しました。
ところが最近の研究(2025年現在)では「統帥権の独立」だけではなく数々の要因があったとされることが増えてきました。
それは、陸軍の独断専行文化、謀略行動の常態化、組織間のセクショナリズム、政府・軍中央の統制力不足、現地部隊の独自路線、戦略の欠如、責任の押し付け合い、日本の恥の文化、刷り込まれた日本精神、、、といった複合的な要因が、関東軍やその後の日本軍の愚行や暴走の背景にあったと。僕もそれは正しいと思っています。
しかし、そもそも「統帥権の独立」をプロイセンから導入しなければ、それらの事象も特に起き得なかったというのが歴史の素人である僕の考えです。
特に張作霖爆殺事件がきっかけで(関東軍の愚行悪行を政府が止められず、なにをしても罰せられない前例を作ったしまった事が)その後の事変・戦争へ突入させた影響は大きかったかと。
さらに「制度より文化」「権限よりも空気」という日本独自の民族性が後押しし「統帥権の独立」の悪用が強まっていった思えてなりません。
この考えが間違っていましたら、どうかご教授いただけますとありがたいです。
◆統帥権独立の特異性(対:他国)
上記の通り、大日本国憲法下の日本では、軍の作戦・用兵に関する「統帥」は内閣や議会から完全に独立し、天皇に直属する制度が確立されていました。
参謀本部や軍令部といった統帥機関は、首相や政府の指示を受けず、軍事行動の決定権を独占していました。首相ですら軍の作戦計画の詳細を把握できず、戦争指導に大きな制約が生じました。
一方、他国では、軍は政府・議会から独立しており、制度的に分断されていたケースはほぼありませんでした。多くの国では、戦時には政府首脳や議会が軍の指揮に一定の影響力を持ち、戦略と政治の統合が図られていました。
現代のアメリカ、イギリスなどの欧米諸国では、軍の最高指揮権は大統領や首相などの文民が持ち、軍自体は政府の統制下(シビリアン・コントロール)にあります。これにより、軍事行動と国家戦略・外交が一体的に運用されています。(研究者 山田邦夫)
◆今回まとめてみて個人的に思ったことは
「先進国で学んだからといって、自分の国がよくなるとは限らない、自国には自国のやり方がある」
という中村哲医師の言葉でした。
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
◆最後に個人的なことを書かせていただきます。
僕の父は特攻隊の生き残りでした。
晩ねんはボケてしまい妻(僕の母)の顔さえ分からなくなってしまいまっても当時、先に飛んで散った戦友の写真を見ては、いつも同じ言葉を口にしていました。その声はだんだんと大きくなってゆき最後は嗚咽、、それを繰り返していました。自分がこうして生きていることを懺悔するように。
残念ながらボケてしまってなんと言っているかは分かりませんでしたが、分からないまま他界してしまいました。
隣に住んでいた叔父は、南方戦線で命からがら何とか生きて戻ってきましたが、その影響が最後まで抜けていないことが叔父の話から分かりました。
叔父が寝ようとすると、顔の上を「シュッ」という弾丸の空気をつんざく音が次々に聞こえてくる話。
隣の戦友はヘルメットを撃ち抜かれ、頭蓋骨の中を弾丸がぐるぐる回って即死した話。
爆弾で腕や足が吹き飛んで「殺してくれ」と懇願していた戦友の話。
話をしていた時に、顔からウジが湧いてきた戦友の話。
帰国後いっさい笑わなくなり自死した戦友の話。他にも数々。
中学校の時の歴史の先生の話。
中学の歴史の先生が授業中に突然、自分が戦地でしてしまったことを涙ながらに告白されたことがあります。
これはあまりにも残酷過ぎて、、だいぶ悩んだ挙句、ここに書くのは控えることにします。
また、僕が大学生の頃、お盆の集まりの時に親族から言われたことがあります。