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■■欧州と日本および世界史に関する忘備録へ■■
■はじめに
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■米国を参戦させてしまった
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■東京裁判
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■日本の反省
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■上記のきっかけを作った第一次世界大戦
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■悪魔ヒトラーについて
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■ヒトラーと「群衆心理」について
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■三国同盟と開戦、そしてドイツ・日本
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■日本とドイツの敗戦後
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■大戦後の世界
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■100年の悲劇を作った三枚舌外交
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■ユダヤ人とは(紀元前から数々の争い・迫害+有能なユダヤ人)
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■出アフリカから現在までの歴史、個人的な備忘録
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■参考資料および引用元
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◆戦争経験者の言葉は重い。
「戦争を知っている世代が社会の中核にある間はいいが、戦争を知らない世代ばかりになると日本は怖いことになる」いろいろあって決して大好きではない田中角栄でしたが、この言葉は核心をついていると思います。
自分は子供の頃から、戦争経験者である親(特攻関係者)や親族からその地獄の経験を聞かされてきましたが、この言葉は本当に重いです。
そして「無言館――戦没画学生たちの青春」のことを必ず思い出します。
「小生は生きて帰らなければなりません、絵を描くために」
この走り書きのメモを読んだ時には、心が揺さぶられました。
幸せを享受するために生きなければならないのです。
◆昨今の情勢を考えてみると、外部の圧力があり仕方ないから最後の止水板を少しだけ開いてしまおうか、、。
でも開けてしまったら流れ出した水のパワーは想像以上、もちろんもう止められない。時には開けた本人が怖がって逃げる事すらある。では下流の人々は逃げられるのか?
「何があっても戦争は絶対にダメ」という考えが「ある人」なのか「ない人」なのか。あるいは「仕方ないんだよ」と止水板を開ける人なのか?
戦争を経験していないトップの歴史的認識と判断にすべてがかかっています。
◆自分は過日、大切なFBFだったKさんを失いました。
92歳という大往生でしたが、Kさんは数少ない戦争経験者でした。
そして、このエッセーを読んでいただいた時に長文の感想文をいただきました。
その中でKさんは「今も、開戦当時の日本の判断ミスを考えると悔しくて悔しくてしかたない。いくらでも開戦を避ける方法があったのに、、」とおっしゃってました。
◆僕は、以前から考えている74年周期ってのが日本にはあったと思っています。
その前に、日本には四つの大変革期があったのかと。
↓
1,「日本人のDNAが変わる」今から2300年程度前、大陸から文明・文化・武器を持った人が移り住み急に日本は変わってゆく。これが「弥生時代」で日本最初の大変革期(倭人のDNAが突然変わる)です。(大陸の影響)
2,「倭国から日本へ」「文字、仏教、天皇中心、律令性、倭国から日本へ変わった時代」(中国の影響)
3,「明治維新」(欧州の影響)
4,最後が「太平洋戦争の戦後」(アメリカの影響)
さて、74年周期の件。この中で、今の世の中に直接影響があるのが3と4かと。
そして3のきっかけとなった「大政奉還」、4のきっかけとなった「真珠湾攻撃」、その間は74年。
では、真珠湾攻撃の74年後には何があったかというと「平和安全法制の成立(集団的自衛権含む)」です。
それぞれの転機の少し後に、世の中がひっくり返るような大転換が起こってます。今回はそれがないことを、心から願っています。
今あらためて前回の選挙の重要性を考えています。
どうか「止水板」を開くことの責任の重さをわかってもらいたいと。
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◆さて、この後は、映画 【東京裁判】 を観て、その前後の歴史を知りたくなり作った内容になります。まとめられず長文に。どうか「青文字」と「赤文字」だけでもお読みいただけましたら幸いです。
◆とは言っても自分は歴史にも映画にも詳しくなくツッコミどころ満載ではないかと不安です。是非、ご教示いただけませんでしょうか。また、本来は映画自体に重きを置くのだと思いますが、映画の背景を中心に書いています。そのため、映画通の方には大変失礼なのかも、と考えています。どうかその点もご容赦ください。
◆上記の通り「東京裁判」を観て前後を調べていたところ、天皇側近の方々の戦争証言ドキュメンタリーを見つけました。自分達(側近の方々)が生存中は一切公開しないで欲しい、その代わり今まで決して口外しなかった真実をすべて吐き出すという内容でした。そのため最近まで公開されませんでした。衝撃的な内容でした。
その後、さらに関連映画を観てゆくと、今まで表だけ知っていた事象が、卓越した役者の力でみごとに表現され身震えることもありました。「戦争の放棄」が生まれた瞬間の静かな演技もその一つでした。だだ、どれも断片的でした。
◆そこで、もっと関連を知りたくなりネット検索を続けました。そんな時、ネットで知り合った歴史の先生から「ネットはおもしろいけど、ある分野のことだけを掘り下げすぎたり、時には独特の解釈があり危険」、まずは「面倒でも幅広く、且つ基礎から勉強した方がよい」とアドバイスをいただきました。早速、先生お薦めの本を買いましたが、自分には難しすぎて全く楽しくありませんでした。しかし、映画の衝撃を忘れられず、どうしても知りたくてたまらない気持ちが増えるばかりです。
◆結局、自分で探すことに。いろいろ探した結果、自分に合っていると思ったのが、小学生向け(笑)の「まんが世界の歴史」と「まんが日本の歴史」でした。2社分の全巻を読みましたが案の定、入門用にはベストでした。初心者なりの全体イメージを掴んでから、次はNHKの「高校世界史」と「高校日本史」の講座を。また、高校の「世界史、日本史の教科書(最新)」と「参考書」を手に入れ線を引き引き、、、その後、池上彰さん、山崎圭一さん、岡部伸さん、木村靖二さん、村山秀太郎さん、羽田正さん、ユヴァル・ノア・ハラリ氏、ジャレド・ダイヤモンド氏、モーリス・ヴァイス氏の本を読んでゆきました。
◆そこからが映像です。可能な限り幅広くドキュメンタリーを探してチェックし始めました。(時にはドラマに酔うことも) 先生のアドバイスにより、権力者が作った歴史ではなくエビデンスのあるものを。近代史は出来るだけ本人の当時の映像および音声情報、本人と直接関係の深い方々、当事者の声をメインにしました。その後、本の著者の方々にメールやSNSで伺ったり、学生時代の歴史の先生やご紹介いただいた先生から直接教えていただいたりしました。そのためその部分は「〜と言われている、〜らしい、〜ようです」という表現にしています。探している途中NHKの制作の方に伺ったところ、制作中、各方面に裏どりをした結果1000の情報の内1つしか使えないことは多々あるとのこと、公共放送として放送する大変さを知ることができました。
◆こうして歴史の流れを見てゆくと、今まで観た映画が違ったものに感じられるようになると同時に「戦争記憶の風化」の怖さを感じるようになりました。そして最後にはいつも「必要以上の欲と自然権・自然法の関係」とは何だろうか?という疑問が湧きだします。
◆本文には、それぞれの歴史的事象の概要と、観た映画のタイトルを赤文字で記載しました。映画の感想は下手なので入れないようにしました。尚、画像はドキュメンタリー中心に載せました(大変申し訳ないのですが、勝手に載せてしまったものもあります)。
◆自分のFBF(スゴイ方)の影響でノートにまとめてみたところ意外に面白く、いつのまにか11冊分のノート出来ました。
↓
◆↑これらのノートを1つにまとめたのが「出アフリカから現在までの歴史(日本、中国、中東、米大陸、欧州)リンク先に飛びます」です◆
◆調べたところ、「戦争記憶の風化」が安易に第一次世界大戦を始めてしまった原因のようでした。この戦争がヒトラーを生み全世界を地獄に落とした第二次世界大戦を引き起こしました。
さらに現在のアメリカを超大国にしたのも、社会主義国家や北朝鮮の出現も、長く続いた冷戦も、中東の悲劇も、内戦、移民、9.11やテロも、すべて安易に始めてしまった第一次大戦が要因の一つだと知り驚いています。それを反省するかのように関連映画が多くつくられています。
◆今回は戦争記憶の風化と映画をテーマに、日本、ヒトラー、三枚舌、中東、ユダヤ関連で観た映画の背景を調べた内容と、それに関連すると思われる映画のタイトルのみを赤文字で記載してみました。しかし、自分が観たものだけですので、他にも良い映画がありましたらご紹介いただけたら嬉しいです。
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◆まずは、日米開戦、東京裁判、日本の反省(当時の幹部による反省)について軽く触れてみます。しかし、細かい部分を端折っていることもあり、また、詳しい方がご覧になるとツッコミどころ満載かと思います。その場合は、お手数ですが、修正点をご教示いただけましたら大変ありがたく存じます。
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◆米国を参戦させてしまった日本
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米国は第二次大戦中、頑なに中立を守っていました。米国も日本の南進(東南アジアの石油)などもあり日本に圧力をかけ参戦する可能性は示唆してはいましたが、日本の真珠湾攻撃が決定打となり日本に宣戦布告し大戦に本格参戦。日本はABC包囲網やハルノート(含:日米諒解案の一部)※の圧力があったとはいえ、結果アメリカという超大国に戦争をしかけて※※しまったわけです。ある意味、窮鼠猫を噛むの状態だったのでしょうか。情報伝達のミス等もあり日本から宣戦布告がない攻撃と思われてしまった真珠湾攻撃。それはあまりにも卑怯だと、それまで戦争をあまり考えていなかった米国の若者たちは怒りを覚え、次々に自ら兵士として志願したようです。
※日本が早く終わらせたかった日中戦争の時、和解できるチャンスが複数回あったようです。また、この戦争前の日英の軍縮交渉でも、握手できるチャンスがあったようです。しかし、どちらも寸でのところで失敗しています。
※「日米諒解案」と「ハルノート」の解釈および対応について、米国寄りの「野村駐米大使」と、日独伊三国同盟にソ連まで加えようとしてた「松岡外相」との対立も影響してたいようです。
※※既に暗号が解読されていたようです。米は警戒配備としてハワイの南西方面に哨戒艇を配備したようですが、日本は裏をかき北方から奇襲したようです。他にも米はハワイではなくフィリピンかと思ったという説や、米当直員が日本の編隊を米の編隊と勘違いしたいう説、ハワイへの警告が普通電報だったため間に合わなかったという説、もあるようです。いずれにしても、真珠湾の1時間20分前のマレー作戦(英領)を含め、ルーズベルト米大統領に「屈辱にまみれた日」と、チャーチルに「かつてこれほどのショックはなかった」と言わせ、米・英を本気で怒らせてしまったことは事実なのかと思います。
※※この真珠湾攻撃をアニメにした「桃太郎の海鷲」という国策映画が残されています。その後、日本の小学校では、子供たちのことを「小国民(天皇に使える小さな国民)」と呼び、米国の飛行機の音だけを聞かせその機種を叫ばせたり、連なった数字を一瞬見せてそれを当てさせる。そして天皇は神で日本民族は世界一優秀である、戦死した人は「軍神」なので泣いてはいけない。また当時の童謡の歌詞には「勝ち抜く僕等小国民、天皇陛下の御為に、死ねと教えた父母の、赤い血潮を受け継いで、心に決死の白襷、かけて勇んで突撃だ」というものも、徹底した洗脳教育を行っていたようです。
「アメリカの全国民が一丸となって怒り」
この状況をドキュメンタリーで見て、9.11の時、全米が一つになり戦争に走った状況と同じものを感じ、得も言われぬ恐怖を感じました。ただ、この時の規模は9.11の比ではありません。
ちなみに、真珠湾の直後、在米日本移民全員は、大統領令の「敵性外国人」として即時拘束連行され、強制収容所へ。
すると三国同盟のドイツ・イタリアもアメリカに対して宣戦布告※し、大変多くの国が参戦することになりました。今となってはこのアメリカへの宣戦布告がヒトラーの最大のミス(ドイツ敗戦の原因)ともいわれているようです。
■真珠湾攻撃に関連「■トラ・トラ・トラ」「■パール・ハーバー」
■日本への初空襲関連 「■日本発空襲 ドーリットル空襲」
■太平洋戦争に関連「■秘録・太平洋戦争全史(前・後)」
■日独伊三国同盟関連「■ヒトラーに傾倒した男(TV)」
■在米移民強制収容関連 「■ヒマラヤ杉に降る雪」
以下も含め観た映画だけを記載しています。
※英国は、日本の真珠湾に助けられたようです。日本の米国への宣戦布告により(日独伊三国同盟の)独が米国に宣戦布告したため、独は英国に手が回らなくなり、英国への独の上陸がなくなった。つまり「日本に助けられた」と、英国のドキュメンタリーで伝えていました。
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◆東京裁判(極東国際軍事裁判)
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人は戦争を裁けるのか?
東京裁判は、日本の戦争犯罪を裁くための裁判。判事はアメリカ、イギリス、オーストラリア、ニュージーランド、カナダ、フランス、オランダ、ソ連、中国、インド、フィリピンの11ヵ国↓で構成されました。
上段左から
インド:パール判事、 オランダ:レーリンク判事、 カナダ:マクドゥガル判事、 フランス:ベルナール判事、 ニュージーランド:ノースクロフト判事、 フィリピン:ハラニーリャ判事
下段左から
イギリス:パトリック判事、 アメリカ:クレーマー判事、 オーストラリア:ウェッブ裁判長、 中国:梅判事、 ソ連:ザリヤノフ判事
日本ではA級戦犯28人が起訴、裁判中に亡くなった方、病気になった方を除き全員が有罪。その中で、土肥原賢二、東条英機、板垣征四郎、木村兵太郎、武藤章、松井石根、広田弘毅の7人が死刑判決を受け12月23日に絞首刑となりました。首相経験者の広田以外は全員陸軍の軍人でした。本来は阿部、真崎も含まれていましたが法廷の椅子が28脚しかなかったため罪を免れました。ちなみに日独伊三国同盟(世界大戦のきっかけ)を強くすすめ日本の開戦に影響を与えた大島浩氏は1票差で絞首刑にはならず服役に。
左から
◆武藤 章(むとう あきら) 1892年(明治25年)12月15日 〜 1948年(昭和23年)12月23日
陸軍中将 参謀本部課長、陸軍省事務局長、第14方面軍参謀長として山下を支援
罪状 一部捕虜虐待の罪 判決 死刑
◆東條 英機(とうじょう ひでき) 1884年(明治17年)12月30日〜1948年(昭和23年)12月23日
陸軍大将 関東軍憲兵隊司令官、関東軍参謀長、近衛内閣陸相、東條内閣首相
罪状 真珠湾の不法攻撃、米軍隊と一般人を殺害した罪 判決 死刑
◆松井 岩根(まつい いわね)1878年(明治11年)7月27日 〜 1948年(昭和23年)12月23日
陸軍大将 第アジア主義者、中支方面軍司令官、大東亜機関会総裁
罪状 捕虜及び一般人に対する国際法違反(南京事件) 判決 死刑
◆土肥原 賢二(どいはら けんじ) 1883年(明治16年)8月8日〜1948年(昭和23年)12月23日
陸軍大将 奉天特務機関長、満州事変の際、奉天臨時市長。
罪状 中国侵略の罪 判決 死刑
左から
◆板垣 征四郎(いたがき せいしろう)1885年(明治18年)1月21日 〜 1948年(昭和23年)12月23日
陸軍大将 関東軍参謀長、陸相、支那派遣軍参謀長、朝鮮軍司令官
罪状 中国侵略、米国の平和に対する罪 判決 死刑
◆広田 弘毅(ひろた こうき)1878年(明治11年)2月14日 〜 1948年(昭和23年)12月23日
外交官、ソ連大使、近衛内閣外相、第32代内閣総理大臣、外相時、天羽声明や広田三原則を発表
罪状 近衛内閣外相として、南京事件での残虐行為を止めなかった不作為 判決 死刑
◆木村 兵太郎(きむら へいたろう) 1888年 明治21年 9月28日 〜 昭和23年(1948年)12月23日
陸軍大将 関東軍参謀長、近衛内閣・東條内閣陸軍次官、ビルマ派遣軍司令官
罪状 英国の平和に対する罪 判決 死刑
ここまでが概要ですが、ご存じのように、この裁判には「事後法」という根深い問題が潜んでいました。
まずは、「人は戦争を裁けるのか?」という永遠のテーマのような問題。また、具体的な問題として、この裁判自体が「事後法」なので裁判として成り立たないのではないか?という事。この点に関しては冒頭で日本の弁護人「清瀬弁護人」からの指摘がありました。
次にブレイクニー弁護人(日本側の弁護人)は「真珠湾攻撃におけるキッド提督の死が殺人罪になるならば、我々は広島に原爆を投下した者の名を挙げることができる」として証拠を出そうとしたところ、ウェッブ裁判長の判断で同時通訳が即座に停止され、日本語の速記録には「以下、通訳なし」と記載されたようです。
その背景です。まず第一次世界大戦は違法ではありませんでした(戦争は国家の権利)。その後、1928年に出来た「パリ不戦条約」(日本も調印)では、各国の解釈にばらつきがあったようです。日本は、当該条約調印後も「満州事変」「日中戦争」「太平洋戦争」を起こしています。
1945年ロンドン会議でニュンベルク裁判用として「平和に対する罪(侵略に対する罪)」が提唱され個人の責任も確定しますが、日本の当該各戦争中は、その前の為この罪がなかったことになります。しかし、東京裁判では(同じく終戦を迎えた後に行われたナチスドイツをこの罪で裁いた)「ニュンベルク裁判」を参考にせざる得いないジレンマもあったのかもしれません。特に英連邦や米では。
しかし、日本(他国もあるはず)では、「事後法」という概念があります。これは、当該事象時(戦争中)に成文として存在しない法律を基に罰することが出来ないことのようです。一方、英・米や国際法では、上記の場合でも、「コモン・ロー」(国際慣習法)を前提に刑罰を科することが出来るようです。この違いが根本的に相いれない齟齬を生んだのかも?
結果、各国の判事の考えにも反映され、それが一部の国の判事が出した意見書として表れているのかもしれません。
特にインドのパール(パル)判事は徹底して事後法の矛盾を訴え全員無罪を主張しました。オランダのレーリンク判事も、パール判事の公平性に理解を示し途中から意見を変え、フランスのベルナール判事は一部反対としれこれらの各意見書を提出したようです。↓
◆東京裁判で対象になる罪(A,B,C)
1,平和に対する罪(A級犯罪)
侵略的戦争などの国際法に違反する戦争を計画,準備,開始,実行した行為に対する罪のこと。個人の刑事責任の追及もあります。第二次大戦後に規定され,3の人道に対する罪と合わせて新しい戦争犯罪に追加されました。
2,戦争犯罪(B級犯罪)
通例の戦争犯罪で、国際条約の定める戦闘法規に違反する行為の罪。具体的には降伏者の殺傷、禁止兵器の使用、私人や私船に対する攻撃、捕虜の殺害や虐待、スパイ行為、等です。
3,人道に対する罪(C級犯罪)
一般市民に対して殺害、迫害、拷問などの危害を加えた者に対する犯罪を指します。東京裁判でこの罪を受けたのは士官以下の者に対してがほとんどでした。この罪はホロコースト(ナチスドイツ)に適応されましたが、日本には適応しませんでした。理由は(日本には)特定の民族を絶滅させる意図がなかったためのようです。
◆東京裁判の大まかな流れ
日本の終戦の日に、英・仏・米・ソの4カ国で、国際軍事裁判所条例に調印しました。そこで、平和に対する罪(A)、戦争犯罪(B)、人道に対する罪(C)の罪をそれぞれ規定しました。(1945年8月15日)
↓
マッカーサーが東京裁判の裁判長や判事を決定しました。(1945年2月15日)
↓
A級戦犯28名が起訴されました。(1945年4月29日)
↓
東京裁判が始まりました。(1945年5月3日)
↓
1年後、日本国憲法が施行されました。(1946年5月3日)
↓
昭和天皇を不起訴にするとマッカーサーが決めました(と言われています)。(1948年1月8日)
↓
A級戦犯25人に有罪判決が下されました。(1948年11月11日)
↓
極東国際軍事裁判所が閉鎖しました。(1948年12月9日)
↓
7人の絞首刑が実行されました。(1948年12月23日)
(A級戦犯の遺骨の処理について今まで不明でしたが、2021年に公開された米の公文書から、当時、米軍が太平洋に散骨していたことがわかったようです。散骨の理由は場所を特定すると神格化される恐れがあったから、のようです)
↓
起訴されなかったA級戦犯19名(岸信介元首相も含む)が釈放されました。(1948年12月24日)
画像はありませんが、ある違法実験・研究を行っていた部隊員の多くは、終戦時その詳細な研究資料を隠し持っていたらしいのです。そこで、彼らは戦犯を免れたく、米国が欲しがっていた※その実験・研究の資料を米国に引き渡したともいわれています。結果的に当該部隊の関係者は誰一人として東京裁判の罪には問われなかったようです。
※マッカーサーが厚木に降り立った時に言ったとされるのが「ゼネラル〇〇(部隊長の名前)はどこにいる?」だったそうです。(娘さんの話とのことでした)
ちなみに「溥儀」も東京裁判にかけられ、中国の収容所で囚人番号981を付けた長年の再教育をうけ、最終的には北京の庭師となり生涯を終えました。
■東京裁判に関連する映画「■東京裁判(既出) ■東京裁判(ドラマ)」
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◆日本の反省(秘密裏に行われた反省会)と「統帥権マチガイ」
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戦後35年経った1980年から秘密裏に行われた戦争反省会(天皇直属にいた超エリート集団の方々が出席し130回行われた)のドキュメンタリーを最近、見ました。
反省会は、【「発言者が存命中は、録音(記録)を公表しない取り決め】を前提として行ったとのことで公開が遅れたようです。
見た感想は、開戦当時、戦争絶対反対という強い政府等の声が多くあったにもかかわらず、「統帥権の独立※(以下注釈)を盾に軍が独走してしまった」という印象を受けました。
まずは断片的になってしまいますが、その概要について引用いたします。
佐薙元大佐 日本の国力を検討せず対米戦を行ってしまった
三代元大佐 軍備拡張のために多くの予算を使ってしまったので、今更、戦えないとは言わないことになっていた
日本軍に撤退という選択肢はありません
大井元大佐(礼儀正しい日本人が)何であんなにね 日本の人たちが残酷になったのかと
元中佐 身の程知らずの暴走をやり、ついに日本を破滅に追いこんだ
※統帥権=「戦争を指揮する権限で天皇の大権」
簡単に言うと、内閣等を介入させず、天皇に直属する軍令部のみが(勝手に)戦争を始められる権利。立法、司法、行政の三権の上に立つ超越的な権力で、これが「統帥権の独立」。山県有朋が制度設計したと言われていますが、そもそものきっかけは、やはりビスマルクやドイツ憲法(バイエルンは軍の統帥権を認められていた)の影響らしいです。いろいろ勉強してゆくうちに、日本が十五年戦争を起こしてしまった要因は「統帥権の独立」だと思うようになってきました。最後に統帥権を持ったのは東条英機。東條は刑の執行直前に「統帥権マチガイ」というメモを残していたようです。
我々は山県さんのペン先のように働いた
最後は、「一億総特攻」という選択も
天皇陛下万歳と言ってみんな死んでいった。一人も生きていないんだよ。
東京裁判1(本当のことは何も言うなと 黙っておけ)
東京裁判2(三戸少将は偽証をして守った。これは表向きにしたら えらいことになる)
東京裁判3 豊田元大佐(マッカーサーは) 陛下を 俗な言葉でいえば利用して 占領政策をやりやすいようにすると
東京裁判4(米 フェラーズ軍事秘書官)、(マッカーサーの決定「天皇は必要」に従うべく)天皇に罪がないことにするためには(さらに裁判を滞りなくするためと占領後の混乱を避けるためには)東條に全責任を負担せしめるようにすることだ
マッカーサーと天皇の会見でのやりとりは、マッカーサー回顧録よりも、藤田侍従長の回顧録のほうが正しいのでは、と先生から伺ったので、忘備録としてここに載せておきます。(ただ正確な情報がないので、お詳しい方どうかご教示ください)
まず、天皇の言葉
「敗戦に至った責任が追及されているが、責任はすべて私(天皇)にある。文武百官は、私の任命する所だから、彼等には責任はない。私の一身は、どうなろうと構わない。私はあなた(マッカーサー)にお委せする。この上は、どうか国民が生活に困らぬよう、連合国の援助をお願いしたい」
それを聞いたマッカーサーの反応を侍従長は
「一身を捨てて国民に殉ずるお覚悟を披瀝になると、この天真の流露はマ元帥を強く感動させたようだ」と。
さらに次のようなマッカーサーの発言を記しているようです。
「かつて、戦い敗れた国の元首で、このような言葉を述べられたことは、世界の歴史にも前例のないことと思う」とのことでした。
しかし、藤一利の「昭和史」によると、重臣らに和平を提案された昭和天皇は、「もう一度戦果を挙げてから」と答えたため沖縄戦、原爆投下につながった経緯がある、と書いています。この辺りの事実を知りたい。
個人的に思っていることは、動画で見た天皇の発言「広島への原爆投下も広島市民は気の毒だけど、やむを得なかった」を聞くと、その最後の最後まで反省してはいけないと立場上、思っていたのかもしれない。その後、完全に負けを認めた時点で「自分に責任がある」と考えるようになったのかも??この辺の真相は闇の中かもしれない。
■日本の敗戦に関連する映画
「■日本のいちばん長い日」「■東京裁判」「■マッカーサー」「■日本戦歿学生の手記 きけ、わだつみの声(1950)」「■私は貝になりたい(1959)」「■蟻の兵隊」
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長年、大きな戦争がなかった欧州に「戦争記憶の風化」を原因として安易に発生させてしまった第一次大戦。それは人類がかつて経験したことのない世界大戦に、そしてヒトラーを生み出しました。
ドイツはそれまでビスマルク体制↑で戦争をしないような仕組み(同盟)を作っていました。しかし、その後のヴィルヘルム2世が外交方針を転換しロシアと敵対した頃から、バルカン半島が不穏になりオスマン帝国も手を引きつつありました。するとバルカン半島は民族の自立を求める動きが強まり「「ヨーロッパの火薬庫」に、それがサラエボ事件(セルビア人青年がオーストリア皇太子夫妻を殺害)を発生させることに繋がります。
しかし、以下の事象がなければ思いとどまることが出来た可能性もあったようです。まず、ドイツ議員団の判断ミス(一貫して戦争を反対していたにも拘わらず、50億マルクの軍事予算を通してしまった)事と、一番の要因は、各国とも高齢になった戦争経験者達の「何があって戦争だけはダメ」という意見を聞かなかった事のようです。それにしても最初はオーストリアとセルビアのいざこざだったものが、各国間の同盟が逆効果になり、敵を増やしてしまうことに。結果、その後の世界を「戦争の世紀」にした第一次世界大戦を招いてしまったようです。
ドキュメンタリーで、若者達は戦争を安易に考え、ニコニコしながら「一週間もすればこの戦争は終わる」、と、みんなそう信じていました。乗り込んだ列車にも「これからパリへの小旅行」などと書いてありました。
しかし、上記の通り各国の思惑が入り乱れることになり、この戦争は各国に拡大し(スペイン風邪も含め)ついには世界を巻き込んでゆきます。
さらに、それまで歩兵、騎兵(つまり人や馬)、単発銃だったものが、機関銃や爆弾が多く使われると、その対策で塹壕が掘られることに。すると、またその塹壕対策として戦車、飛行機、毒ガスが登場(毒ガスは後に違法。この毒ガスで若い時のヒトラーが負傷)することになります。最後には米国が参戦したことで同盟国(ドイツ等)は敗れ、1914年から1918年と4年以上続いた世界大戦は終焉を迎えます。
ちなみにこの時の日本は「日英同盟」を理由に協商国(同盟国のドイツとは敵対)に加わり、結果的に漁夫の利を得て中国の山東半島※とドイツ領の南洋諸島等)を奪うことになります。※これが、日本の大陸進出を本格化させた要因ともいわれているようです。
戦争の風化が原因で安易に始めてしまったこの大戦は、後の世界を大きく変える四つの要因を作り出し禍根を現在にも残ることになりました。
◆一つ目はアメリカの台頭です。その理由は、第一次大戦でアメリカは戦場にならず被害も少なく、さらに多額の経済援助各国に対して行い、経済的にも、政治的にも発言力が大変強くなっていったためです。1920年代には工業力でも他国を圧倒し、アメリカは大量生産、大量消費の時代に突入、ここから世界の超大国になってゆきます。
◆二つ目は、レーニンの出現
長期化した大戦に国民の不満が爆発したロシアでは1917年に「パンよこせ」から「戦争反対」「打倒専制」と広がり、「二月(三月)革命」で帝政が終わり、「十月(十一月)革命」でレーニンのもとソヴィエト政権が誕生します(二つの革命の総称がロシア革命)。レーニンはコミンテルン(国際共産主義運動の指導組織で、後にあの金日成も加入)を結成し、ロシアに亡命中の革命家たちを中心に世界中に社会主義・共産主義を広めてゆくことになり、それはスターリンに引き継がれます。その後の冷戦構造から起こった数々の波及も、現在の北朝鮮の影響もこれが大元でした。1000年前から関係が深刻なキエフ公国を踏襲するウクライナとも複雑な利害関係が。
◆三つ目は三枚舌外交の影響です。現在も続く100年の悲劇を作ったパレスチナ・中東問題、数々の内戦、移民問題、テロ(含:9.11)の原因までも作りました。日本の高度成長が終了したものこの三枚舌が起因しています。三枚舌については、最後の方で詳しく記載します。
◆四つ目はヒトラーの出現です。ヒトラーは、第一次大戦中、毒ガスで目を負傷し入院、その時に「ドイツ兵はユダヤ人によって殺された、偉大なドイツを取り戻せ」が頭をよぎり、政治家となる決意をしたようです。その後、ヒトラーは第二次世界大戦を引き起こし世界を恐怖のどん底に、結果的に世界中に6000万〜8500万人の犠牲者を出すことになります。ヒトラーについては、この後、詳しく記載します。
◆追加すると、「帝国主義から国民国家へ」もあるかと思います。
世界は帝国主義から国民国家へと変わってゆきます。合わせて数多くの新興国民国家も誕生しました。この大戦前の欧州の争いは貴族同士の争いで、この戦争のように国民が直接戦争にかかわることもあまりありませんでした。そのため短期戦がメインでした。また、普通選挙が広まったのもこの戦争が影響し、社会保障制度にも影響してゆきます。
■第一次世界大戦関連「■大いなる幻影」「■ジョニーは戦場へ行った」「■戦火の馬」「■1917命をかけた伝令」、、他。
◆第二次大戦のきっかけは?
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ヨーロッパでは、1919年第一次大戦の反省として「パリ講和会議」により「ヴェルサイユ体制(英・仏による独の弱体化の目的)」が誕生します。
※常任理事の5大国(英・仏・伊・日・米)だが米はモンロー主義で未加入。日本も中国への進出で途中脱退。
またアジアでは、1922年、米国による「ワシントン体制(日本の中国進出を抑えることが目的)」が誕生します。
その後、1929年に米国で株価の大暴落が起こり、各国に飛び火し全世界は「世界恐慌」に陥ってしまいます。
米国は、ニューディール政策で(国による経済政策だが成功ではなく、結局は軍需景気で)立て直し、英・仏ではブロック経済(植民地などを利用した閉鎖的経済体制)でやはり立て直します。
しかし、それらを「持たざる国」の日、独、伊(後に日独伊三国同盟)は具体的な対策が出来ませんでした。しかし、民主主義で全員の意見を聞きまとめていたのでは、埒があかないと思ったのでしょう。そこでそれらの国々で始まったのが、超トップダウンによる「独裁※」でした。※日本も226事件をきっかけに実質独裁の道へ。
そんな中、1939年9月1日、ポーランドのグダニスクを親善訪問中のドイツ巡洋艦が、突然ポーランド守備隊に対して砲撃を開始しました。ヒトラーは、ヴェルサイユ条約で失ったドイツ領を回復したく、東方への「生存圏」を拡大する意図があったようです。これによって第二次世界大戦が始まってしまいました。
■第二次世界大戦関連「■戦場にかける橋」「■カサブランカ」「■大脱走」「■イミテーション・ゲーム」「■ダンケルク」「■エセルとアーネスト ふたりの物語」、、他。
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◆悪魔ヒトラーについて
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1889年にオーストリアで生まれ元々は画家を目指していたようでしたが、美術学校の受験に2回失敗し(ここで合格していれば、、、)しばらくは日雇い労働をしていたようです。
ヒトラーの身分証明書(オーストリア人であることがわかります)
その後、オーストリア軍への徴兵を逃れるためドイツへ移住、しかし結局はバイエルン軍として第一次大戦に参戦します。そこでヒトラーは伝令兵として戦場を駆け回っていました。ヒトラーは酒もたばこもやらず劣悪な環境にも不平一つ言わず、兵士としては熱心すぎると周りから言われたほどでした。
この時、伝令兵として味方の窮地を救った功績で認められた「第一級鉄十字勲章」を、ヒトラーは生涯身に着けていました。
ヒトラーは、第一次大戦中、毒ガスで目を負傷し入院。「ドイツ兵はユダヤ人によって殺された」「偉大なドイツを取り戻せ」この二つのことが入院中、常に頭をよぎり、この時、政治家になりドイツを偉大な国家にしたいと決意したようです。
戦後、政界に進出しましたがミュンヘン一揆で投獄され、その中で「我が闘争(人種による能力分け、東方生存権でドイツ領土拡大、ナチを示唆)」を執筆したようです。政界に復帰してからは一気に出世し「ドイツ史上かつてない三権を掌握した絶大な権力(全権委任法)」を持ち※、ナチズム=国家として「ナチス・ドイツ」を作り上げることに。
※次の項の通り敵対勢力(共産・社会)を収容所送りにしたため全権委任法も通りやすかったようです。ヒンデンブルク大統領をただ見ていることしかできない立場にし、「長いナイフの夜」の一か月後、大統領が87歳で死去すると即日、大統領と首相の権限を持つ「総統」となり、国家元首の地位に。
ヒトラーは「第一次大戦で不屈の精神を学び飢えをしのぎ、この地位を勝ち取った」と国民に向かって発信しました。
ここで事実上ドイツの独裁者に。ヒトラーの長年の夢、彼が愛したワーグナーの作品に登場する「リエンツィ」になる夢を叶えたわけです。
■ヒトラー全権掌握前関連「■我が闘争(若き日のアドルフ・ヒトラー)」「■ヒトラー 権力掌握への道」
◆また、裕福なユダヤ人に対して持つアーリア人の嫉妬心を利用し国民を動かす原動力に。しかし、実は、ユダヤ人の有能さを恐れていたのかもしれません。そのためヒトラーは「この社会不安は、自国を持たないユダヤ人が他国と繋がり情報を操作・提供しているためで、ユダヤ人は国を破壊する劣等民族だ」と。
その上「優生学」の名のもとにアーリア人だけを優勢民族とし、ユダヤ人(ロマ人、障害者、一部のスラヴ人、共産・社会主義者、労働組合のリーダーまでも)を徹底的に迫害し収容所に(ニュルンベルク法)どんどん国民を巻き込んでゆくことに。
障害者生徒には4800マルクが、通常生徒には320マルク、優秀な生徒には125マルクしか国の負担が発生しないという理由で障害生徒を迫害。
「長いナイフの夜」4年後の「水晶の夜」をきっかけにユダヤ人に対する略奪・焼却・暴行・逮捕、ユダヤ人の財産はすべて国庫へという法律まで。ついに「T4作戦」へ。
■映画「■善き人」にもその最初のきっかけが。
◆ドイツは、第一次大戦で負った多額の賠償金※で国民すべてが疲弊し失業者が国内にあふれ、さらに、1929年の米国の株価大暴落に端を発した世界恐慌が重なりドイツ国内は大変な状況になっていました。
※ヴェルサイユ条約でドイツの賠償金総額が1320億金マルクに決定。この金額は、当時のドイツの国家予算の何十年分にもあたる金額で純金47,256トン相当。現在の日本円にして約 200兆円。ただ、不思議なのが、このような大恐慌で、且つ大迫害をしておきながらも国民の支持が絶大だったということです。
◆それは何か?ヒトラーの失業者対策が功を奏しました。(当時、列車の時代にこれからは車の時代になると)世界初の高速道路網アウトバーン構想を立て、機械を使わない人手による道路作りの労働を多くの国民に提供。その上を走る国民車として安価な車のちのワーゲン※を作り世界最大の自動車工場※までも建設。移動させるために安価な旅行を提供します。さらに大規模な軍事工場も。国民は増えた収入で次々に家を建てます。その上、労働時間を8時間に、長期休暇、財形貯蓄の制度を整えるようにしたところ、たった3年で600万人いた失業者を完全雇用状態(12万人まで減らした)にしたらしいです。(データの見せ方に一工夫あったようですが)
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※国民車の最初のラフデザインはヒトラー自身が作成し、そのデザインを、ほぼ踏襲し生産されたようです。その工場が現在のフォルクスワーゲン社。
◆疲弊していた国民は「ヒトラーは凄い!!言葉が明瞭で分かりやすく、なんといっても言葉と実行がみごとに伴っている。こんなリーダーを待っていた」と大喜び、道で友人にあうと「ハイル・ヒトラー」と例のポーズを取り合っている一般国民の映像をドキュメンタリーで観て唖然としました。その頃ヒトラーの支持率はなんと90%に。
片や、ユダヤ人達を攻撃するナチの姿を見た一般国民が、自分たちも悪のユダヤを倒そうと手助けをしていた映像にはさらに驚きました。この背景には「集団ヒステリー(ネット市民、マスコミ、ワイドショーが、突然、聖人君子になり徹底的に失敗者を弾圧、、等)」もあると思いました。
◆しかし、その頃ヒトラーは「ユダヤ人大虐殺」をひそかに行い、後々、深い憎しみの連鎖を生むきっかけを作っていました。(迫害は第二次大戦前から。これが6回目?の迫害)
■ホロコースト関連「■シンドラーのリスト」「■夜と霧」「■灰の記憶」「■サラの鍵」「■ライフ・イズ・ビューティフル」「■ソフィーの選択」「■サウルの息子」「■縞模様のパジャマの少年」「■英国のシンドラー(TV)」、、他。
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◆ヒトラーと「群衆心理」について
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ヒトラーが、ギュスターヴ・ル・ボンの「群衆心理※」を愛読していたことが分かり、とても興味を持ちました。ヒトラーはこの心理をうまく利用したのかもしれません。
※「断言(分かり易い言葉を作る)」「反復反復(いつでもどこでも何度でも)」「感染感染(本やメディアが指導者の代わりに)」この3つがキーワード。そして群衆化してしまうと、たとえ最初は疑問に思っていても、だんだん集団と同じ方向に向かうことに心地よささえ感じるようになるらしいのです。例えば、元々は理性のある常識人でも、ある方向性に向かった集団の一人になると、平気で放火・殺人まで。その向かわせ方は、人々が普段無意識に思っている不満や願いを、簡潔な言葉(〇〇という悪を我々の手で倒そう、等)で訴えると、今まで言葉に出来なかった民衆には「そうだ、そうだっ!!」という想いが湧きだし妙な正義感で団結し、いつのまにか電灯の虫のように勝手に集まってくるらしいのです。「一人を騙すより、一万人を騙す方が簡単とも」
上記「感染」の為にヒトラーは映画を活用しました。ヒトラーが魅了された女性の映画監督「レニ・リーフェンシュタール」。ヒトラーを神と崇め、側近たちを美化した映画を数多く制作。ナチ傾倒の過去は都度話題となりながらも、オリンピック映画「オリンピア」を撮影の時、ナチから有色人種の活躍をカットするように指示があっても映像美を理由に彼女はそれに従わなかったようです。その後100歳になっても映画を作る情熱をもち、101歳まで生きました。
ちなみに、民衆から神と崇められていた人でも、信用がなくなったとたん民衆から罵詈雑言を浴びせられ最終的には殺害されてしまうという例も多くあります。フランス革命での「ロベスピエール」がいい例でしょう。
■群衆心理関連の映画「■リチャード・ジュエル」「■ミスト」(国民などはこの心理?)
■集団心理関連の映画「■THE WAVE ウェィヴ」(幹部などはこの心理?)
■ロベスピエール関連の映画「■ダントン」
◆この仕組みが他国に例を見ないヒトラー独自の独裁なのだと思いました。他の独裁のように国民を苦しめたり粛清・虐殺することも少なく、ナチや国民の共通の敵(それがユダヤ)をつくるという独特の方法で、これを「合意独裁」というらしいです。その上、卓越した演説で国民を一気にファンにしてしまいます。この辺は「■さよならアドルフ」にも。
それが高じて、被害者だけでなく、一般市民の犯罪者までも増やしてしまった訳です。これは悪魔の仕業ともいえるでしょう。(この画像はドキュメンタリーからではないですが、裏が取れたため「顔のないヒトラーたち」から。)
ヒトラーは莫大な資金を賄うため、演説会を有料にしたところ、逆に人が人を呼び聴衆が増えたらしいです。これはナチの大きな収入源だったようです。
◆日本とも関係を深めてゆきます。
三国同盟前ですが、1937年には「■新しき土」(ドイツのタイトルは「愛国者たち」)という原節子初主演の日独合作映画を作り、ドイツで行った試写会ではヒトラーやゲッペルスが拍手を送ったそうで、これもドキュメンタリーで観ました。
◆その後ヒトラーは第一次大戦で失った国の資産(領土等)を言葉巧みにどんどん取り戻し、自信と誇りを回復した国民はさらに熱狂。他国からの不満が増えた時には、ドイツ民族が住むズデーテンを最後にもうこれ以上の領土は求めないと宣言しました。それに対して「輝ける平和主義者」と持ち上げた人がおり(後に撤回)一時期ノーベル平和賞の候補にもなったことは事実のようです。
これは、ナチス・ドイツがポーランドに侵攻し第二次大戦が勃発する約8か月前のことです。第二次大戦が始まってからは、イギリス、スペインを除いたほとんどの東西欧州圏を圧倒的な軍事力により手中に収めるわけです。
◆ヒトラーの部下や側近たち
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◆ヒトラーは有能な部下を探し出すことにも長けていたようです。道路はトートに、車はポルシェ※に、宣伝相はゲッペルスに、国防軍はゲーリングに、親衛隊はヒムラー(ホロコーストは彼)に、党幹部はボルマンに、フランス・アフリカはロンメル(砂漠の狐)等に任せていたようです。※その後ポルシェは戦車をつくらされ戦後、収監されました。
ちなみに、宣伝省トップに就いたゲッペルスがドイツの映画人を集めた時に、政治的には敵対するソ連の映画だが「戦艦ポチョムキン」だけはドイツ映画の指針になると演説したらしいです。
ゲッペルスは飛行機での遊説をさせたり、数々の暴動を起こし注目させたり、ヒトラーですら驚くほどの宣伝を考案し、ヒトラーから「ゲッペルス博士」と(対外的には)呼ばれていたほどでした。数々の部下の中でも、最後までヒトラーへの忠誠を貫いたのはゲッペルスだけでした。
■ヒトラーの幹部関連「■ゲッペルスと私」「■ナチスの愛したフェルメール」「■ナチス第三の男」「■ロンメル 〜第3帝国最後の英雄〜」「■パットン大戦車軍団。他にも多くの幹部が。この辺りは「■さよならアドルフ(既出)」「■ブラックブック」にも一部。
◆とは言っても、ヒトラーの命を狙う部下・側近たちがいたことも事実だったようで、小さいものを含めると実に42回の暗殺計画があったようです。行進中の路上、講演会場、会議室、演壇の下、列車、飛行機、鉄橋、、、いたるところに爆薬が仕掛けられ、時には部下が体に爆弾を括り付け自爆テロのような暗殺も計画されました。しかし、すべて直前にヒトラーの予定が変わったり、爆発してもヒトラーはかすり傷だったり、不発だったり、42回とも失敗しています。とにかく悪運が強かったようです。
■打倒・反ヒトラーを掲げる人々「■白バラの祈り ゾフィー・ショル、最期の日々」「■独裁者」「■ヒトラーを殺す42の方法」「■ハンナ・アーレント」
■隠れた人々「■アンネの日記」「■ソハの地下水道」
■逃げ延びた人々「■ふたつの名前を持つ少年」「■あの日あの時、、」「■戦場のピアニスト」「■異端の鳥」「■ヒトラーを欺いた黄色い星」
■フランス(ユダヤ)関連「■黄色い星の子供たち」「■さよなら子供たち」■ロシア(ユダヤ)関連「■オーケストラ!」■アルゼンチン(ユダヤ)関連「■家へ帰ろう」
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◆三国同盟と開戦、そしてドイツ・日本
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「あれは私が言い出したんですからね 三国同盟」
これはドイツ、特にヒトラーに心酔していた、ある駐ドイツ特命全権大使O氏の言葉です。元々、「日本の大陸進出」と「ドイツの領土拡大」とは直接関係のない争いでした。しかし三国同盟でこの2つが結び付き、1年後にはさらに各国に広がり世界大戦になりました。O氏は、東京裁判時、1票差で絞首刑を免れ服役、晩年はひっそりと暮らし「私は、日本を誤った日に導いた人間です」といって亡くなっていったそうです。
三国同盟を知った米国は、厳しい経済制裁を日本に科し、それを境に、日本中から鉄製品がどんどんなくなってゆきました(供出)。その後、独ソ戦が始まりソ連の脅威が和らぐと思った日本は、資源確保の目的で南進し南部仏印(ベトナム等)に軍事基地を作ろうとします。米国はそれに即反応し、在米日本資産の凍結、ついには命綱の石油までも制裁の対象(当時8~9割が米国から輸入、後は備蓄で賄うのみ)になってしまいました。国内は当然反米感情が高まり出します。この南進政策が日本の大失敗だったと言われています。
ノモンハン事件後に設立された「秋丸機関」は、米の総合的な力を日本の20倍以上と会議で伝えたが、出席者は居眠りしていた人も多かったとの事。しかし、近衛は東條からゾルゲ事件などの追求にもあい結局は内閣総辞職。その後、総理になった東條(陸軍大臣、内務大臣も兼務)でさえ開戦回避を願い開戦慎重論者で組閣し、国内の開戦熱を抑えようとしたようです。そもそもの海軍があいまいな態度を取っていた事も要因でした。その後、数度にわたる日米外交交渉が難航しているうちに、「ハル・ノート(大陸からの全面撤兵、三国同盟離脱、他)」が届いてしまいます。数日後、御前会議で日米交渉の打ち切りを決め、今、短期決戦に出ざる得いないと日米開戦の12月8日を迎えます。
日本が真珠湾攻撃で太平洋戦争を起こすと、三国同盟の独・伊も米国に対して宣戦布告し、大変多くの国が参戦することになりました。
上記にも書きましたが、この米国への宣戦布告がヒトラーの最大のミス(独、敗戦の原因)ともいわれているようです。
同じく、英国は、日本の真珠湾に助けられたとも。日本の米国への宣戦布告により独が米国に宣戦布告したため、独は英国に手が回らなくなり、英国への独の上陸はあきらめた。つまり「日本に助けられた」と、英国のドキュメンタリーで伝えていました。
■日独伊三国同盟関連「■ヒトラーに傾倒した男(TV)(既出)」
そんな時ディズニーでは反ナチ映画を作っていました。タイトルは「■総統の顔」(ドナルドダックがヒトラー、ムッソリーニ、昭和天皇の肖像に敬礼する映像もありました)。また、日本を嘲笑した「■東京 Tokyo Jokyo」も。
アメリカでは、ナチから迫害されたアインシュタイン(ユダヤ人)の署名もあり、迫害を逃れた多くのユダヤ人科学者が加わりマンハッタン計画(トップのオッペンハイマーもユダヤ人)で核兵器開発が遂行されました。
■マンハッタン計画関連「■シャドー・メーカーズ」「■デイ・アフター・トリニティー」
◆ブロック経済外の国同士で結んだ同盟(簡単にイタリアから)
まず最初のファシストは、かつてのローマ帝国の威光を取り戻すと「強いイタリア」を掲げて現れたムッソリーニでした。
ヒトラーは最初ムッソリーニへの憧れがあったそうで、何でも真似をしてゆきました。あの「ハイル・ヒトラー」のポーズさえもローマ式敬礼の影響。逆にムッソリーニはヒトラーを「道化師」と馬鹿にしていた時期があったようです。
その後、ムッソリーニはファシスト党内のクーデターで一時失脚しましたが、以前、道化師と馬鹿にしていたヒトラーの命令で救出されました。しかし、枢軸軍の完全な敗戦に伴い再び失脚し銃殺。ミラノ市の広場に吊るされた後、無記名の墓に埋葬されることになりました。
■ムッソリーニ関連「■砂漠のライオン」「■国境は燃えている」「■愛の勝利を ムッソリーニを愛した女」
◆ドイツは、、、
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◆あのダンケルクを含め快進撃だったドイツでさえも、東部戦線でソ連を追い詰めていましたが、やはり冬将軍には勝てず、バグラチオン作戦をきっかけにだんだんと押される展開に。ソ連は女性兵士を(狙撃兵もふくめ)100万人も動員していました。
対ソ連、大戦初のドイツ軍の降伏
■バグラチオン作戦関連「ヨーロッパの解放」
■東部戦線関連「■戦争のはらわた」「■僕の村は戦場だった」「■炎628」「■ひまわり」
■ソ連の女性兵士関連の映画「■レッド・リーコン1942」「■バタリオン ロシア婦人決死隊VSドイツ軍」「■ロシアン・スナイパー」
◆反対の西部戦線は、アメリカ・イギリスを中心とした連合軍(アイゼンハワーが指揮官)とドイツ(ロンメルが指揮官)とによる2年に渡る騙しあいの末、1944年6月6日、連合軍がノルマンディー上陸作戦成功で一気に形成が転換。さらにこの時ヒトラーは愛人エヴァの妹の結婚式でドイツから大分離れた別荘に、ロンメルもそこにいた。この時の一番のドイツの失態は、アイスランドやグリーンランドにあったドイツ軍の気象観測所が連合軍によって破壊されており、上陸の暗号をドイツ軍が解読していたにも関わらず、天候悪化が続くと考え、対策を打たなかったこと。実は、上陸の1日だけは天候が回復する予報があったが上記の理由でドイツ軍は気象を読めていなかった。また、アイゼンハワーはノルマンディーに人口港を作るまでの執拗だったことも。ついに、パリはついに4年間のヒトラー支配から解放されました。
■西部戦線関連「■西部戦線異状なし」「■ダンケルク」
■ノルマンディー上陸関連「■史上最大の作戦」「■プライベート・ライアン」
■パリ解放関連「■パリは燃えているか」「■愛と哀しみのボレロ」
ドイツの戦力低下を支えたのが、10歳以上で加入が義務付けられヒトラーが作り育てた「ヒトラーユーゲント」↑達でした。しかし、非常に忠誠心の強い彼らもベルリンの戦いでは多くの犠牲者を出すことになりました。
◆ヒトラーは、すでに勝ち目がないとわかっており壁の厚さが5mもある地下壕に籠り指揮を執っていました。しかし、ベルリンの戦いの頃には、外の瓦礫を見ないようにし、形勢不利や負け戦の話を一切、避けるようになっていたことをドキュメンタリーで観ました。誰もが服従・崇拝していたあのヒトラーも最後を意識してからは、迷走しはじめ、暗殺未遂、裏切りによる猜疑心も強くなり、ナチ内部は崩れ始めたようです。
そんな頃、ヒトラーは愛人エヴァを地下壕に呼び、ささやかな結婚式を挙げ、その後、二人で命を絶ちました。
ヒトラーが肌身離さず持っていた母の肖像。地下壕で最期を迎える時も持っていたとのことでした。
■ヒトラー暗殺関連「■ヒトラー暗殺、13分の誤算」
■ベルリンの戦いに関連「■ブリキの太鼓」
■ヒトラーの最後に関連「■ヒトラー 〜最期の12日間〜」
◆日本は、、、
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◆残りの日本は、真珠湾攻撃の半年後、ミッドウェイ海戦ではすでに暗号を解読されており、複数の主力空母や多くのベテランパイロット、大多数の戦闘機を失い大打撃を。にもかかわらずその失敗は箝口令が敷かれ誰も責任を取らず真相は封印。続けてガダルカナル撤退、アッツ島玉砕。
大本営はことごとく情報を改竄「損害は5分の一、戦果は6倍」発表、一般国民はそのまま鵜吞みにし喜んでいました。
しかし国内は資源不足が激しくなり、東南アジアに活路を求めることに。それが「大東亜共栄圏」。最初は(フィリピン以外では)歓迎されましたが、実態は違ってゆきました。
そんな中での学徒出陣↓
旧制中学は予科練へ↓
「志願しろ。したくなければ理由を言え」
これは磯野さんという方のお話です。すでに戦況怪しい時期、若い将校が磯野さんの旧制中学校を訪れ、生徒たちに予科練への入隊を迫ったとのことです。ほとんどの生徒が入隊し、その多くが特攻で亡くなられました。磯野さんももちろん入隊しましたが、運よく出撃前に終戦になったとのことでした。
そんな状況でも東條首相は「敵は焦っている。今が攻め時」と国会答弁。しかし、サイパン、グァムも玉砕、一部善戦しながらもほとんどの戦いでことごとく負け続け犠牲者は膨大な数に。少年戦車兵も全滅。空も陸も圧倒的な米国の戦力の前には無力と化してしまったようです。資源のない日本にとって頼みの綱だった海上輸送船も次々に撃沈され徹底した兵糧攻め。さらに東京大空襲(皆殺しのルメイのB29焼夷弾33万発無差別攻撃、その後ルメイはこの功績により国から称えられます)、沖縄上陸、本土(ほぼ全国の都市200以上が)空襲・じゅうたん爆撃。民間人も含めた数多くの犠牲者を出し続けしまうことになってしまいました。
ついには世界でも類を見ない「特攻」↓まで行うことに。
◆そこで疑問が湧きます。軍部が、そんな状況でもかたくなに降伏しなかったのは何故? 原爆を落とされるまでは勝てると思っていた? そんな状態で一億総特攻・一億玉砕とは国民の尊い命をどう思っていた? 以前こうした質問を海外の方から立て続けにされたとき自分は何も反論できませんでした。日本人として、日本にも何か言い分はあると強く思いたいのですが、、。やはり結論としては、軍部への「統帥権(天皇の大権)独立」の責任が大き過ぎたと思っています。
■日本の連敗に関連「■ミッドウェイ」「■硫黄島からの手紙」■大東亜共栄圏関連「■東洋の凱歌」 ■落下傘部隊関連「■空の神兵」 ■沖縄戦関連「■ハクソー・リッジ」 ■本土空爆関連「■君の名は」「■ガラスのうさぎ」「■戦争と青春」 ■原爆関連「■ひろしま」「■はだしのゲン」「■黒い雨」「■八月の狂詩曲」「■夕凪の街 桜の国」「■父と暮らせば」「■この世界の片隅に」
■統帥権独立が影響「■太陽の帝国」「■鬼が来た」「■黒い太陽」「■支那の夜」「■ラストエンペラー」
◆少し話がそれますが、
日本が起こした十五年戦争(満州事変からポツダム宣言受諾までの実質13年11カ月)の原因は統帥権の独立にあるのではと思っています。さらに、その前の日清(朝鮮半島の支配に起因)・日露戦争(ロシアの南下に起因)の原因は、ビスマルクによるものだとも。ビスマルクは日本の岩倉使節団に対して「貴方がたも万国公法を気にするより、富国強兵を行うべき。さもなければ植民地化の波に飲み込まれるだろう(法など気にせずに、経済と軍事力を増やさないと、他の大国に侵略されてしまう)」と法律を気にしていた団員に説いたようです。
それを聞いた大久保利通は「新興国家ヲ経営スルニハ、ビスマルク侯ノ如クアルベシ。我、大イニウナズク」と書いて、ビスマルクを大先生と呼んで慕っていったようです。その考えが後の日本を外国に対して好戦的にしてしまった原因という方もおられます。特に最初の日清戦争では、遼東半島・台湾・澎湖諸島の割譲や2億両という莫大な賠償金を得たことで国民からも絶大の支持が。それに気分を良くし、その次も、という考えで安易に日露戦に進んだ可能性もあるとも言われています。
満州事変から3年後の日本。「日本を見習おう」というドイツのニュースからです。
■日清戦争関連「■坂の上の雲」 ■日露戦争関連「■二百三高地」
■十五年戦争関連「■日本鬼子 日中15年戦争・元皇軍兵士の告白」
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◆日本とドイツの敗戦後
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◆日本の敗戦後
最終的に日本には原爆を落とされ、ついにポツダム宣言で無条件降伏を受け入れ、玉音放送で終戦(日本国内では)を迎えることになります。日本の大陸進出を原因に始まった太平洋戦争もやっと終わりました。
その後、ソ連の侵攻(シベリア抑留)、マッカーサー来日、米艦ミズーリ号で降伏文書に調印(ペリー来航時の米国旗を掲げる。これが世界的に見た終戦)、日本国憲法公布、極東国際軍事裁判(東京裁判)と続きます。
1,マッカーサー、日本国民に食料や医薬品を支給※しよう。
この対応は吉田茂が組閣を遅れさせた為ともいわれているようです(組閣を遅らせ無政府状態にしておくと、食料医療不足はマッカーサーの責任になるため)
2,ソ連は米国に対して日本の分割統治を強く求めましたが、マッカーサーがこれを拒否したとのことでした。
3,マッカーサーによれば、幣原総理が「戦争の放棄」を米国に依頼したとのこと。理由は統帥権独立への反省から。ただ憲法草案に入れたのは米国とのことでした。
(1〜3については、ドキュメンタリーからではないですが、その裏取りが出来たため、映画マッカーサーから画像を載せました)
※LARA(アジア救済連盟)物資の助けも大きかったようです。米国の各慈善団体や在米日本人から送ったいただいたものが多かったようです。
◆GHQの五大改革
・選挙制度の改正:女性参政権がはじめて認可。
・財閥解体:三井、三菱、住友、安田の四大財閥などの解体、過度経済力集中排除法の制定。
・農地改革:地主制度の解体と小作農の解放、自作農の創設。
・教育改革:教育勅語の廃止。教育基本法の制定。6・3・3制の単線型教育。男女共学に。
・国家神道の廃止:「神道指令」により神社は宗教法人へ。
また、ヒトラーが嫌った共産圏、スターリン子飼の「金日成」がソ連から朝鮮に姿を現すのもこの頃です。朝鮮戦争では、やはりマッカーサーが司令官として再登場し、ノルマンディーばりの上陸作戦で大勝。北朝鮮を追いやります。しかし、中国の反撃があったため、マッカーサーはそこで「原爆」を使おうとしますが、トルーマンに反対され、かつその要因での「老兵は死なず、ただ、、」を残して解雇されます。理由はその時点ですでにソ連が原爆を有しており、場合によっては米ソの第三次世界大戦を引き起こす可能性があったためです。
そんな中、日本は、「吉田茂」が結んだ「サンフランシスコ平和条約」で敗戦後から丸六年で独立し、「日米安全保障条約」で安全保障を米国に委ね、「軽武装・経済優先」で戦後の日本を立て直すことになります。
その後、「岸信介」が「新安保(共同防衛)」を国会で強行採決、且つ岸が東條内閣の閣僚だったこともあり、戦後最大の国民運動「60年安保闘争」に発展し退陣。
さらにその後は、吉田学校出身の「池田勇人」が総理となり、「所得倍増計画」や彼の最後の仕事「東京オリンピック」で高度成長路線を突き進んでゆきます。この高度成長路線は(3枚舌外交に起因した)第四次中東戦争によるオイルショック(1973年)で終わることになり、今に続いています。
■終戦関連「■日本のいちばん長い日(既出)」「■マッカーサー(既出)」「■東京裁判(既出)」「■私は貝になりたい(1959)(既出)」、、他。
■満州・ソ連侵攻・シベリア抑留関連「■赤い月」「■どこにもない国(TV)」「■流れる星は生きている」「■異国の丘」「■祖父の日記帳と私のビデオノート」
■終戦後の日本関連「■人間の証明」「■野良犬」「■酔いどれ天使」「■渋谷物語」「■肉体の門」「■ヨコハマメリー」「■マッカーサー(既出)」「■蟻の兵隊(既出)」「小説吉田学校」、、他。
■米国日系移民関連「■ヒマラヤ杉に降る雪」
◆ドイツの敗戦後
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ドイツでは敗戦後、ホロコーストの実態が連合軍によりあからさまにされると、その死体処理をあえてドイツ人にやらせたようです。そして生き残ったユダヤ人収容者に対してドイツ人達は「こんなことが起こっていたなんて、私たちは知らなかった」と泣きながら詫びました。
するとユダヤ人たちは口々に「いいえ、あなたたちは 知っていた」と。
これをドキュメンタリーで観た時、罪を作る構造の深さをつくづく考えるようになりました。
◆現在のドイツでは、教育機関、政府、司法、もちろんメディアまでもが一体となって、ホロコーストの犯罪を忘れず許さず、またその事実が風化しないために、若い世代に伝えるこを使命にしているようです。そして、街中のユダヤ人住居跡に、被害者の名前と殺害された日を記載。教室で手を上げる時には、ハイル・ヒトラーを想像させないよう指を立てる。言論の自由は当然守られていますが、ナチ賛美は厳しく取り締まり法律違反、ホロコーストの存在否定だけでも罰金刑です。中東の難民を多く受け入れたのも、これらの反省からということを何かで読んだことがあります。理由は、この悲劇は決してヒトラーだけが起こしたものではないということを未来永劫忘れないため、とのことでした。にもかかわらず未だに「ホロコーストはなかった」という方々もおられるようです。
■ヒトラーの裁判関連「■顔のないヒトラーたち」「■否定と肯定」
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◆大戦後の世界
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◆ヒトラードイツの崩壊後、運よく生き残れたユダヤ人科学者達は,
米・ソの「ナチスドイツの頭脳争奪戦」の末、最初にソ連、遅れて米国と、それぞれの国に渡り、米・ソが喉から手が出るほど欲しがっていた、「V2ロケット」(後に大陸間弾道弾へと発展)、「核」(ウラン235の原子核に中性子を衝突させてるととんでもないエネルギーが発生、後に核兵器へと発展)他の各種技術の伝承することになりました。その後、1945年に米国は核実験を成功※させ、その4年後にソ連も同じく成功させます。「■草原の実験」
※トリニティ実験(1945年7月16日)により世界初の核実験が行われ、実験の成功は、ポツダム会談が始まる直前のトルーマンに電報で「待望の赤ん坊が無事生まれた」と知らされました。アインシュタインの相対性理論の発表から40年後でした。
◆ユダヤ人のオッペンハイマーは、原子爆弾開発が成功したその時、ヒンドゥー教の一節「我は死神なり、世界の破壊者なり」が頭に浮かび、核兵器開発を主導した事を後悔したと、また、その場にいた科学者の誰もがただ押し黙って下を向いていたと、ドキュメンタリーで(生のオッペンハイマーの声と映像で)見、聞くことになりました。
その3週間後、リトルボーイはB29のエノラゲイに積まれ広島に落とされました。「■シャドー・メーカーズ(既出)」
◆また、同じくユダヤ人のアインシュタインは、日本に原爆が落とされたと聞いた時、「ああ、なんということを!!」と叫んだとされています。
さらに戦後アインシュタインは、ノーベル賞を受賞した湯川秀樹の米国の研究室を訪れ、湯川の手を握り涙ながらに肩を震わせ「罪もない広島・長崎の人たちを、、、」と、核兵器開発に与えた自分の影響を謝罪したことをドキュメンタリーで見ました。そのことから、アインシュタインは最後まで核兵器廃絶を進言し続け、米国から疎まれ、彼の葬儀は家族やわずかな友人だけでひっそりと行われたこともドキュメンタリーで見ました。
しかし、その後も、米ソの核実験は水爆も含め続き、すでに1800回を超えています。「■第五福竜丸」
◆いずれにしても原子爆弾は開発されただけでなく、実際に使われてしまった訳です。その結果1962年のキューバ危機では、ルメイ(日本本土空爆を計画・実行した「皆殺しのルメイ」)が、「ソ連全土に対してヒロシマ型原爆45万個分を投下する以外に方法はない」と強くケネディに進言しました。しかしケネディはそれを断固として受け付けず海上封鎖で事なきを得たことがあります。
ドキュメンタリーでの二人の会話、特にルメイの「それ以外に方法はありません。あなたは今、絶体絶命なんですよ。大統領、、、」という進言を聞いて空恐ろしくなりました。もし、ケネディが承諾していたら、米ソ相互の核攻撃が始まり、各国も巻き込んだ核による第三次世界大戦になったいたことは確実でした。また、両国の情報の行き違いで寸でのところで核ミサイルが発射されてしまうことも。しかし、部下の冷静な判断で未然に収まったこともあった。結果的にソ連はキューバのミサイルを、米国はソ連を狙ったトルコの核ミサイルをそれぞれ撤去することで合意したらしい。地球を滅ぼしてしまうような大戦でも、トップの判断一つで決まってしまうこの恐ろしさに身の毛がよだつ思いが。しかし、翌年がダラスの悲劇でした。
■キューバ危機関連「■13デイズ」「■博士の異常な愛情・・・」「■五月の七日間」
■ケネディ暗殺関連「■JFK」「■ダラスの熱い日」
◆ドキュメンタリーで観た、ヒトラーが自決する最期の時に秘書に言ったとされる「このファシズムは私と共に消え去る、だが100年後には新たな思想のファシズムが生まれるだろう」という言葉は印象的でした。
◆「戦争記憶の風化」及びヒトラー、日本のまとめ
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◆第一次大戦がヒトラーを生み、ヒトラーが第二次大戦のきっかけを作り全世界が戦争の影響を受けたわけです。その大元になった第一次大戦は「戦争記憶の風化」から生まれたとドキュメンタリーで知りました。つまり、その頃にはすでに戦争を経験した人々が高齢になり、且つ経験者の意見も聞かなかったことが、安易に開戦させた要因とのことです。その為、最初に言及したとおり第一次大戦に参加した兵士たちはニコニコしながら一週間程度で帰れるだろうと誰しも軽く思っていたと、そのドキュメンタリーで観て驚きました。
◆実は、以前、自分の祖父、親、親族、そして先生からお盆の集まりの時に言われたことがあります、「国から人殺しを命令され当たり前のように従ってしまった自分達、空襲で親兄弟を殺され逃げ惑った自分達、芋がらや草までも食べて生き抜いた自分達。この経験を何が何でも伝えてゆかないといつのまにか風化して世の中から消えてしまうのではないか」と、さらに「戦後何十年経った今でも毎日のように戦争中のことが脳裏に浮かび、時には恐ろしいほど鮮明な〇〇〇(リアル過ぎて書けないので伏字にします)の夢にうなされる。お前は戦争を知らないが、風化だけはさせないで欲しい」と。
はからずも「風化の恐怖」を歴史と親達の言葉から知ったことは驚きとともに深く焼き付けられました。
その後、自分の大好きな「映画」には、反戦を声高に叫ぶよりはるかに大きい価値があり、場合によっては「風化」させないための少ない選択の一つかもしれないと思うようになりました。
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英国は第一次大戦で邪魔な存在のオスマンを弱めるため同居していて且つ反オスマンのアラブ人に国家樹立を餌にオスマン・アラブの内乱を起こさせました。しかし、英が勝った時点でそれを突然反故に(フセイン・マクマホン協定)。当時オスマンは現在の中東各国のほとんどを治めていました。英の目的は石油の利権も。
反故のあとは反オスマンで同じ陣営だったフランスがいきなりアラブに銃を向け攻撃開始、その後のアラブ地区非対称戦争のきっかけに。
2,英のシオニズム支持表明(バルフォア宣言)
つまりパレスチナにユダヤ人居住地の建設(それがイスラエル)を賛意することに。目的はライオネル・ロスチャイルドなどのユダヤ人大富豪から戦争資金を引き出すことでしょう。(バルフォア宣言)その後「イスラエル対パレスチナ」の大混乱が始まり結局は両者とも被害者に。
3,オスマンの領地を英、仏(露も)で分け、パレスチナは国際管理に(サイクス・ピコ協定)
その後、勝手に引いた国境が独裁政権となり、国民、近隣国、大国の軍事介入等による争いは絶えず1,2も含め貧困、難民が増え続けることに。
◆結果的に上記のそれぞれ同時に対応できない無責任な三枚舌外交を展開(マクマホン、バルフォア、サイクス、ピコ全員がロスチャイルド一族のユダヤ人)。戦後、どうにも収拾がつかなくなった英国は、国連に依頼することになり、依頼された国連は2でユダヤ人に多くの土地を与え、イスラエルという国家まで樹立させました(国連を仕切ってた米国ではユダヤ人富裕層が中枢を握っていたからとも)。
この無責任な対応が不毛な4回にも及ぶ中東戦争、湾岸戦争以外にも80を超える戦争・内乱の原因・遠因を作り、膨大な数の難民や深刻な貧困を生むことに、近年は欧州にも大きな影響を与えることになりました。
また、日本の戦後1955年から1973年まで続いた日本の高度成長路線(成長率年平均10%を越えという、諸外国にも例を見ない急速な経済成長)が途絶えたのも、この第四次中東戦争によっておきたオイルショックがきっかけになっています。
■中東戦争関連「■ハート・ロッカー」「■アメリカン・スナイパー」「■ゼロ・ダーク・サーティ」、、他。
■湾岸戦争関連「■戦火の勇気」「■ガルフ・ウォー」「■戦場でワルツを」
◆本来、国境を持たないアラブ人達は、勝手に国を作られ(片や、やっと国を持て)、国境線を一方的に引かれ、先祖代々の土地を奪われ、中には追い出され、近年は神聖な宗教の名を借りただけの集団も増え、先の見えない憎しみの抗争に発展していったという構図です。その争いに必要な大量兵器は大国にとって不可欠なドル箱。つまり終わらない悪の均衡が続くことに。
三枚舌外交とその後の対応は100年の悲劇を生み出し、ついにはあの9.11の遠因※にもなってしまった訳なのです。
※三枚舌でオスマン帝国の一部をクウェートとして独立させたことが、その後の湾岸戦争のきっかけを作り、ビン・ラディンは、湾岸戦争以降も中東に米軍が駐留しているのを非常に憤慨していたことから。
■9.11関連「■ユナイテッド93」「■ワールド・トレード・センター」「■9.11〜N.Y.同時多発テロ衝撃の真実」「■ホース・ソルジャー」「■ゼロ・ダーク・サティ」
■三枚舌外交自体が舞台「■アラビアのロレンス」
■三枚舌から起因した事象「■ミュンヘン(既出)」「■希望のかなた」「■判決、ふたつの希望」「■存在のない子供たち」「■娘は戦場で生まれた」「■壊された5つのカメラパセチナ・ビリンの叫び」「■シリアの花嫁」、、、
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◆ユダヤ人とは(紀元前から数々の争い・迫害+有能なユダヤ人)
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◆ユダヤ人とは
まず「ユダヤ人」と言われる方々の定義については、ユダヤの血統を持った方を指してるとか、ユダヤ教の信者の方を指すとかいろいろな説があるようです。「◆2種のユダヤ人」のところでその背景に少し触れています。
一般的に言われている「元をたどれば」の大元は、まず、アダムとイブの子孫。そのさらに子孫であるノアの後のアブラハムが、カナンの地(エルサレム)をヤハウェ(神)から与えられたことに始まるようです。そこで安住することになった彼らのさらなる子孫ユダヤの12部族(ヤコブの子孫たちでウチ10部族は不明。残った2部族の一つがユダ族)が直接の先祖とされているようです。これらの事は旧約聖書の最初の書である創世記に記載されているとのこと。読んでないのでわからないのですが、自分が調べた限りではそうでした。この辺は「■天地創造」にも一部。
その後も、ユダヤ人(当時はヘブライ人)は、カナンの地で遊牧生活を続けましたが、飢饉のためカナンから古代エジプトに集団移住することに。しかし、彼らは、よそ者のため奴隷として酷い扱いを受けたようです(これが最初?のユダヤ人の迫害)。それに耐えられず、モーセ(3宗教で最重要な預言者)の「出エジプト」により、元の「約束の地 カナン」(モーセ五書の創世記に [わたしはあなたの子孫にこの地を与えます] とある)を目指し40年以上もの間荒野を彷徨うことに。伝説では途中、紅海が割れ現れた道によりエジプトから無事逃げることが出来たり(この辺は「■ミュンヘン」のセリフの中にも出てきました)、モーセがシナイ山でヤハウェから「十戒」を受けたといわれています。モーセの十戒の最初の一文「主が唯一の神であること」が一神教として現在にも大きく影響しているのでしょう。「■十戒」「■プリンス・オブ・エジプト」
その後、紆余曲折を経てダビデがイスラエル(ヘブライ)王国を作り、その子ソロモンによりソロモン神殿も作られ大変繁栄したようです。
時は経ちローマ帝国の配下(属州※)にいた彼らは、1世紀頃その圧制を逃れるため「ユダヤ戦争」を起こしましたが、それに敗れ各国に離散し、国を持てない民族になってしまったようです(結果的にこれが2回目?のユダヤ人迫害)。ユダヤ戦争で壊されたエルサレムの神殿(一度、壊されているのでヘロデの第二神殿)の遺構(西側の壁)があり、そこが現在の嘆きの壁となっています。
◆イエスとの関係(エルサレムにはマリアが)
※この属州時代にあのマリア「■イントレランス(の揺り篭を揺らす女性=リリアン・ギッシュ)」がおり、大天使ガブリエルから受胎を告知され、その子がイエス(キリスト=救世主)。ユダヤ教徒であったイエスが後に新しい考え方(ユダヤ教徒でなくても神を信じる者は救われる、大切なのは愛。つまりユダヤ批判)をしたため犯罪者とされ、死刑の権限がないユダヤ教指導者からローマ帝国に渡されエルサレムで磔処刑。「■パッション」
しかし、その考え方は弟子たちにより各地に広められキリスト教になっていったようです。その後、ローマ皇帝(暴君)ネロによりキリスト教が激しく弾圧されましたが、信じる人達の強い想いを止められず、4世紀にはキリスト教がローマ帝国の国教に、それをきっかけにヨーロッパ全土にキリスト教が広がっていったようです。対してユダヤ教徒はイエス殺しの罪深き民と決めつけられまた迫害。これが紀元後に訪れた3回目?のユダヤ人迫害でした。
◆エルサレムは3種ある一神教の聖地
エルサレムには、上記の通りユダヤ教徒がカナンの地に建てたソロモン神殿の跡地があり、イエスが処刑された場所で且つイエスの墓(聖墳墓)もあり、イスラム教の預言者ムハンマドがガブリエルに伴われエルサレムの神殿上の岩から昇天した岩(今はドームで囲われている)もある地です。そのため3宗教の聖地になっています(現在は国連が管理)。また、一神教として同じ神のことを、ユダヤ教ではヤハウェ、キリスト教ではゴッド、イスラム教ではアッラーとそれぞれ呼んでいます。また経典は、ユダヤ教では聖書(キリスト教にとっては旧約聖書)、キリスト教では旧・新約聖書、イスラム教では旧・新約聖書も含めメインはコーラン、とそれぞれなっているのかと思います。さらに、モーセはユダヤ教と他2宗教の預言者、イエスはクリスチャンにとって神の子や救世主(時には預言者とも)、ムハンマドはムスリムにとってモーセもイエスも含め最後の預言者と呼ばれているようです。ちなみにエルサレムに「アルメニア人地区」があるのは、アルメニアが最初にキリスト教を国教にした国だからとのこと。
◆エルサレムへの十字軍からの攻撃
このエルサレムは、その後ビザンツ領土となり、イスラム教のセルジューク朝に占領されることに。そこでビザンツはローマ教皇に助けを求め、11世紀後半から約200年間(1096〜1272)、西ヨーロッパのキリスト教諸国と協力した十字軍により聖地奪還を旗印にエルサレムは攻め続けられました。とは言っても十字軍は途中から目的不明に、時には悪の集団に、ついに教皇の権威も失墜してしまいました。
しかし、十字軍も悪いことばかりではなく、イスラム・ビザンツ文化の影響として、香辛料,絹織物,医学、数学、果ては貿易、貨幣経済などが広がり各地に中世都市を作らせました。ある意味カール大帝やオットー一世が原型を作った西ヨーロッパの発展に大きく寄与したことになります。
「■バルト・キングダム」「■キングダム・オブ・ヘブン」「■ロビン・フッド」にも。
◆2種のユダヤ人
ユダヤ人に関して個人的に不思議に思っていることがあります。それは白人のユダヤ人が多いということ。
そこで知り合いの先生に聞いたところ、元々のユダヤ人はヘブライ民族(イエスも含めた中東系)の容姿だったが、9世紀以降、白人のユダヤ人が一気に増え出したとのこと。その理由は、コーカサス辺りにハザールという有能な白人の王国があり、その国が9世紀初頭のオバデア王の国政改革でユダヤ教に集団改宗したことが原因という説があるとのこと。その後ハザール王国は周辺国の襲撃に遭い滅亡し人々は東欧各地に離散、アシュケナージ系ユダヤ人(白人系のユダヤ人で全体の80%がこの方々)として国家を持たない民族になっていったという説があるとのことでした。つまり白系ユダヤ人のご先祖はコーカサス付近にあるようです。(しかしこの説は専門家からは否定されているという話も聞きました)
片や中東系のユダヤ人をスファラディ系と呼んでいるらしく、この二系統はあまり活発な交流をしていないとのことでした。このことが「ユダヤ教徒=ユダヤ人」という構図が生まれた要因かと思いました。これが正しいなら4回目?のユダヤ人迫害。
◆有能なアシュケナージ系ユダヤ人
しかし、分かっている事実としては、今から六百数十年前にヨーロッパでペストが大流行した時、ユダヤ人たちは裕福で衛生的でもあり(ユダヤの教義では倹約、勤勉、清潔などがある)ペストの被害が他の民族よりは少なかったようです。その為、ペストの原因はユダヤ人だと非難され酷い迫害を受けることに。この時にもユダヤ人の大虐殺があったようです(これが5回目?のユダヤ人迫害)。そんな時ポーランドのカジミェシュ大王が、モンゴルの襲撃による街の破壊と人口減少を賄おうと、クラクフという都市に優秀なユダヤ人達を大量に受け入れる政策を取ったようです。ユダヤ人達は迫害の中、無一文でやってきたにもかかわらず、その類まれな有能さで土地や資源を必要としない金融業※・医者・研究者をはじめ各方面でどんどん成功者を出してゆきました。それを知った周辺の国民達(アーリア人と呼ばれるヨーロッパ人)は密かな嫉妬を覚えていたようです。※キリスト教では利子は認められておらず、それを行ったユダヤ人は蔑まれていたことを考えると皮肉です。とは言っても、あれだけ虐殺されてしまっても、全世界の金融を牛耳る中心人物の多くが、ノーベル賞受賞者の3人に1人が、ハリウッドのビック5の映画会社すべてが、多くの監督、俳優、歌手が、グーグル、フェイスブック、オラクル、デル、マクドナルド、トイザらス、デポ、リーバイス、シトロエンの創業者が、他にもマルクス、アインシュタイン、フロイト、ノイマン、ドラッカー、オッペンハイマー、アシモフ、ピュリッツァー、、、他多数が、それぞれアシュケナージユダヤ系ということは事実なようです。この要因は「タルムード」という人もいます。
以上、、、楽しい内容ではなく、また短くまとめられず、すみませんでした。
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◆参考資料および引用元へ
■■出アフリカから現在までの歴史、個人的な備忘録へ■■
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■■欧州と日本および世界史に関する忘備録へ■■
■はじめに
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■米国を参戦させてしまった
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■東京裁判
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■日本の反省
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■上記のきっかけを作った第一次世界大戦
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■悪魔ヒトラーについて
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■ヒトラーと「群衆心理」について
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■三国同盟と開戦、そしてドイツ・日本
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■日本とドイツの敗戦後
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■大戦後の世界
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■100年の悲劇を作った三枚舌外交
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■ユダヤ人とは(紀元前から数々の争い・迫害+有能なユダヤ人)
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■出アフリカから現在までの歴史、個人的な備忘録
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■参考資料および引用元
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◆戦争経験者の言葉は重い。
「戦争を知っている世代が社会の中核にある間はいいが、戦争を知らない世代ばかりになると日本は怖いことになる」いろいろあって決して大好きではない田中角栄でしたが、この言葉は核心をついていると思います。
自分は子供の頃から、戦争経験者である親(特攻関係者)や親族からその地獄の経験を聞かされてきましたが、この言葉は本当に重いです。
そして「無言館――戦没画学生たちの青春」のことを必ず思い出します。
「小生は生きて帰らなければなりません、絵を描くために」
この走り書きのメモを読んだ時には、心が揺さぶられました。
幸せを享受するために生きなければならないのです。
◆昨今の情勢を考えてみると、外部の圧力があり仕方ないから最後の止水板を少しだけ開いてしまおうか、、。
でも開けてしまったら流れ出した水のパワーは想像以上、もちろんもう止められない。時には開けた本人が怖がって逃げる事すらある。では下流の人々は逃げられるのか?
「何があっても戦争は絶対にダメ」という考えが「ある人」なのか「ない人」なのか。あるいは「仕方ないんだよ」と止水板を開ける人なのか?
戦争を経験していないトップの歴史的認識と判断にすべてがかかっています。
◆自分は過日、大切なFBFだったKさんを失いました。
92歳という大往生でしたが、Kさんは数少ない戦争経験者でした。
そして、このエッセーを読んでいただいた時に長文の感想文をいただきました。
その中でKさんは「今も、開戦当時の日本の判断ミスを考えると悔しくて悔しくてしかたない。いくらでも開戦を避ける方法があったのに、、」とおっしゃってました。
◆僕は、以前から考えている74年周期ってのが日本にはあったと思っています。
その前に、日本には四つの大変革期があったのかと。
↓
1,「日本人のDNAが変わる」今から2300年程度前、大陸から文明・文化・武器を持った人が移り住み急に日本は変わってゆく。これが「弥生時代」で日本最初の大変革期(倭人のDNAが突然変わる)です。(大陸の影響)
2,「倭国から日本へ」「文字、仏教、天皇中心、律令性、倭国から日本へ変わった時代」(中国の影響)
3,「明治維新」(欧州の影響)
4,最後が「太平洋戦争の戦後」(アメリカの影響)
さて、74年周期の件。この中で、今の世の中に直接影響があるのが3と4かと。
そして3のきっかけとなった「大政奉還」、4のきっかけとなった「真珠湾攻撃」、その間は74年。
では、真珠湾攻撃の74年後には何があったかというと「平和安全法制の成立(集団的自衛権含む)」です。
それぞれの転機の少し後に、世の中がひっくり返るような大転換が起こってます。今回はそれがないことを、心から願っています。
今あらためて前回の選挙の重要性を考えています。
どうか「止水板」を開くことの責任の重さをわかってもらいたいと。
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◆さて、この後は、映画 【東京裁判】 を観て、その前後の歴史を知りたくなり作った内容になります。まとめられず長文に。どうか「青文字」と「赤文字」だけでもお読みいただけましたら幸いです。
◆とは言っても自分は歴史にも映画にも詳しくなくツッコミどころ満載ではないかと不安です。是非、ご教示いただけませんでしょうか。また、本来は映画自体に重きを置くのだと思いますが、映画の背景を中心に書いています。そのため、映画通の方には大変失礼なのかも、と考えています。どうかその点もご容赦ください。
◆上記の通り「東京裁判」を観て前後を調べていたところ、天皇側近の方々の戦争証言ドキュメンタリーを見つけました。自分達(側近の方々)が生存中は一切公開しないで欲しい、その代わり今まで決して口外しなかった真実をすべて吐き出すという内容でした。そのため最近まで公開されませんでした。衝撃的な内容でした。
その後、さらに関連映画を観てゆくと、今まで表だけ知っていた事象が、卓越した役者の力でみごとに表現され身震えることもありました。「戦争の放棄」が生まれた瞬間の静かな演技もその一つでした。だだ、どれも断片的でした。
◆そこで、もっと関連を知りたくなりネット検索を続けました。そんな時、ネットで知り合った歴史の先生から「ネットはおもしろいけど、ある分野のことだけを掘り下げすぎたり、時には独特の解釈があり危険」、まずは「面倒でも幅広く、且つ基礎から勉強した方がよい」とアドバイスをいただきました。早速、先生お薦めの本を買いましたが、自分には難しすぎて全く楽しくありませんでした。しかし、映画の衝撃を忘れられず、どうしても知りたくてたまらない気持ちが増えるばかりです。
◆結局、自分で探すことに。いろいろ探した結果、自分に合っていると思ったのが、小学生向け(笑)の「まんが世界の歴史」と「まんが日本の歴史」でした。2社分の全巻を読みましたが案の定、入門用にはベストでした。初心者なりの全体イメージを掴んでから、次はNHKの「高校世界史」と「高校日本史」の講座を。また、高校の「世界史、日本史の教科書(最新)」と「参考書」を手に入れ線を引き引き、、、その後、池上彰さん、山崎圭一さん、岡部伸さん、木村靖二さん、村山秀太郎さん、羽田正さん、ユヴァル・ノア・ハラリ氏、ジャレド・ダイヤモンド氏、モーリス・ヴァイス氏の本を読んでゆきました。
◆そこからが映像です。可能な限り幅広くドキュメンタリーを探してチェックし始めました。(時にはドラマに酔うことも) 先生のアドバイスにより、権力者が作った歴史ではなくエビデンスのあるものを。近代史は出来るだけ本人の当時の映像および音声情報、本人と直接関係の深い方々、当事者の声をメインにしました。その後、本の著者の方々にメールやSNSで伺ったり、学生時代の歴史の先生やご紹介いただいた先生から直接教えていただいたりしました。そのためその部分は「〜と言われている、〜らしい、〜ようです」という表現にしています。探している途中NHKの制作の方に伺ったところ、制作中、各方面に裏どりをした結果1000の情報の内1つしか使えないことは多々あるとのこと、公共放送として放送する大変さを知ることができました。
◆こうして歴史の流れを見てゆくと、今まで観た映画が違ったものに感じられるようになると同時に「戦争記憶の風化」の怖さを感じるようになりました。そして最後にはいつも「必要以上の欲と自然権・自然法の関係」とは何だろうか?という疑問が湧きだします。
◆本文には、それぞれの歴史的事象の概要と、観た映画のタイトルを赤文字で記載しました。映画の感想は下手なので入れないようにしました。尚、画像はドキュメンタリー中心に載せました(大変申し訳ないのですが、勝手に載せてしまったものもあります)。
◆自分のFBF(スゴイ方)の影響でノートにまとめてみたところ意外に面白く、いつのまにか11冊分のノート出来ました。
↓
◆↑これらのノートを1つにまとめたのが「出アフリカから現在までの歴史(日本、中国、中東、米大陸、欧州)リンク先に飛びます」です◆
◆調べたところ、「戦争記憶の風化」が安易に第一次世界大戦を始めてしまった原因のようでした。この戦争がヒトラーを生み全世界を地獄に落とした第二次世界大戦を引き起こしました。
さらに現在のアメリカを超大国にしたのも、社会主義国家や北朝鮮の出現も、長く続いた冷戦も、中東の悲劇も、内戦、移民、9.11やテロも、すべて安易に始めてしまった第一次大戦が要因の一つだと知り驚いています。それを反省するかのように関連映画が多くつくられています。
◆今回は戦争記憶の風化と映画をテーマに、日本、ヒトラー、三枚舌、中東、ユダヤ関連で観た映画の背景を調べた内容と、それに関連すると思われる映画のタイトルのみを赤文字で記載してみました。しかし、自分が観たものだけですので、他にも良い映画がありましたらご紹介いただけたら嬉しいです。
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◆まずは、日米開戦、東京裁判、日本の反省(当時の幹部による反省)について軽く触れてみます。しかし、細かい部分を端折っていることもあり、また、詳しい方がご覧になるとツッコミどころ満載かと思います。その場合は、お手数ですが、修正点をご教示いただけましたら大変ありがたく存じます。
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◆米国を参戦させてしまった日本
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米国は第二次大戦中、頑なに中立を守っていました。米国も日本の南進(東南アジアの石油)などもあり日本に圧力をかけ参戦する可能性は示唆してはいましたが、日本の真珠湾攻撃が決定打となり日本に宣戦布告し大戦に本格参戦。日本はABC包囲網やハルノート(含:日米諒解案の一部)※の圧力があったとはいえ、結果アメリカという超大国に戦争をしかけて※※しまったわけです。ある意味、窮鼠猫を噛むの状態だったのでしょうか。情報伝達のミス等もあり日本から宣戦布告がない攻撃と思われてしまった真珠湾攻撃。それはあまりにも卑怯だと、それまで戦争をあまり考えていなかった米国の若者たちは怒りを覚え、次々に自ら兵士として志願したようです。
※日本が早く終わらせたかった日中戦争の時、和解できるチャンスが複数回あったようです。また、この戦争前の日英の軍縮交渉でも、握手できるチャンスがあったようです。しかし、どちらも寸でのところで失敗しています。
※「日米諒解案」と「ハルノート」の解釈および対応について、米国寄りの「野村駐米大使」と、日独伊三国同盟にソ連まで加えようとしてた「松岡外相」との対立も影響してたいようです。
※※既に暗号が解読されていたようです。米は警戒配備としてハワイの南西方面に哨戒艇を配備したようですが、日本は裏をかき北方から奇襲したようです。他にも米はハワイではなくフィリピンかと思ったという説や、米当直員が日本の編隊を米の編隊と勘違いしたいう説、ハワイへの警告が普通電報だったため間に合わなかったという説、もあるようです。いずれにしても、真珠湾の1時間20分前のマレー作戦(英領)を含め、ルーズベルト米大統領に「屈辱にまみれた日」と、チャーチルに「かつてこれほどのショックはなかった」と言わせ、米・英を本気で怒らせてしまったことは事実なのかと思います。
※※この真珠湾攻撃をアニメにした「桃太郎の海鷲」という国策映画が残されています。その後、日本の小学校では、子供たちのことを「小国民(天皇に使える小さな国民)」と呼び、米国の飛行機の音だけを聞かせその機種を叫ばせたり、連なった数字を一瞬見せてそれを当てさせる。そして天皇は神で日本民族は世界一優秀である、戦死した人は「軍神」なので泣いてはいけない。また当時の童謡の歌詞には「勝ち抜く僕等小国民、天皇陛下の御為に、死ねと教えた父母の、赤い血潮を受け継いで、心に決死の白襷、かけて勇んで突撃だ」というものも、徹底した洗脳教育を行っていたようです。
「アメリカの全国民が一丸となって怒り」
この状況をドキュメンタリーで見て、9.11の時、全米が一つになり戦争に走った状況と同じものを感じ、得も言われぬ恐怖を感じました。ただ、この時の規模は9.11の比ではありません。
ちなみに、真珠湾の直後、在米日本移民全員は、大統領令の「敵性外国人」として即時拘束連行され、強制収容所へ。
すると三国同盟のドイツ・イタリアもアメリカに対して宣戦布告※し、大変多くの国が参戦することになりました。今となってはこのアメリカへの宣戦布告がヒトラーの最大のミス(ドイツ敗戦の原因)ともいわれているようです。
■真珠湾攻撃に関連「■トラ・トラ・トラ」「■パール・ハーバー」
■日本への初空襲関連 「■日本発空襲 ドーリットル空襲」
■太平洋戦争に関連「■秘録・太平洋戦争全史(前・後)」
■日独伊三国同盟関連「■ヒトラーに傾倒した男(TV)」
■在米移民強制収容関連 「■ヒマラヤ杉に降る雪」
以下も含め観た映画だけを記載しています。
※英国は、日本の真珠湾に助けられたようです。日本の米国への宣戦布告により(日独伊三国同盟の)独が米国に宣戦布告したため、独は英国に手が回らなくなり、英国への独の上陸がなくなった。つまり「日本に助けられた」と、英国のドキュメンタリーで伝えていました。
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◆東京裁判(極東国際軍事裁判)
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人は戦争を裁けるのか?
東京裁判は、日本の戦争犯罪を裁くための裁判。判事はアメリカ、イギリス、オーストラリア、ニュージーランド、カナダ、フランス、オランダ、ソ連、中国、インド、フィリピンの11ヵ国↓で構成されました。
上段左から
インド:パール判事、 オランダ:レーリンク判事、 カナダ:マクドゥガル判事、 フランス:ベルナール判事、 ニュージーランド:ノースクロフト判事、 フィリピン:ハラニーリャ判事
下段左から
イギリス:パトリック判事、 アメリカ:クレーマー判事、 オーストラリア:ウェッブ裁判長、 中国:梅判事、 ソ連:ザリヤノフ判事
日本ではA級戦犯28人が起訴、裁判中に亡くなった方、病気になった方を除き全員が有罪。その中で、土肥原賢二、東条英機、板垣征四郎、木村兵太郎、武藤章、松井石根、広田弘毅の7人が死刑判決を受け12月23日に絞首刑となりました。首相経験者の広田以外は全員陸軍の軍人でした。本来は阿部、真崎も含まれていましたが法廷の椅子が28脚しかなかったため罪を免れました。ちなみに日独伊三国同盟(世界大戦のきっかけ)を強くすすめ日本の開戦に影響を与えた大島浩氏は1票差で絞首刑にはならず服役に。
左から
◆武藤 章(むとう あきら) 1892年(明治25年)12月15日 〜 1948年(昭和23年)12月23日
陸軍中将 参謀本部課長、陸軍省事務局長、第14方面軍参謀長として山下を支援
罪状 一部捕虜虐待の罪 判決 死刑
◆東條 英機(とうじょう ひでき) 1884年(明治17年)12月30日〜1948年(昭和23年)12月23日
陸軍大将 関東軍憲兵隊司令官、関東軍参謀長、近衛内閣陸相、東條内閣首相
罪状 真珠湾の不法攻撃、米軍隊と一般人を殺害した罪 判決 死刑
◆松井 岩根(まつい いわね)1878年(明治11年)7月27日 〜 1948年(昭和23年)12月23日
陸軍大将 第アジア主義者、中支方面軍司令官、大東亜機関会総裁
罪状 捕虜及び一般人に対する国際法違反(南京事件) 判決 死刑
◆土肥原 賢二(どいはら けんじ) 1883年(明治16年)8月8日〜1948年(昭和23年)12月23日
陸軍大将 奉天特務機関長、満州事変の際、奉天臨時市長。
罪状 中国侵略の罪 判決 死刑
左から
◆板垣 征四郎(いたがき せいしろう)1885年(明治18年)1月21日 〜 1948年(昭和23年)12月23日
陸軍大将 関東軍参謀長、陸相、支那派遣軍参謀長、朝鮮軍司令官
罪状 中国侵略、米国の平和に対する罪 判決 死刑
◆広田 弘毅(ひろた こうき)1878年(明治11年)2月14日 〜 1948年(昭和23年)12月23日
外交官、ソ連大使、近衛内閣外相、第32代内閣総理大臣、外相時、天羽声明や広田三原則を発表
罪状 近衛内閣外相として、南京事件での残虐行為を止めなかった不作為 判決 死刑
◆木村 兵太郎(きむら へいたろう) 1888年 明治21年 9月28日 〜 昭和23年(1948年)12月23日
陸軍大将 関東軍参謀長、近衛内閣・東條内閣陸軍次官、ビルマ派遣軍司令官
罪状 英国の平和に対する罪 判決 死刑
ここまでが概要ですが、ご存じのように、この裁判には「事後法」という根深い問題が潜んでいました。
まずは、「人は戦争を裁けるのか?」という永遠のテーマのような問題。また、具体的な問題として、この裁判自体が「事後法」なので裁判として成り立たないのではないか?という事。この点に関しては冒頭で日本の弁護人「清瀬弁護人」からの指摘がありました。
次にブレイクニー弁護人(日本側の弁護人)は「真珠湾攻撃におけるキッド提督の死が殺人罪になるならば、我々は広島に原爆を投下した者の名を挙げることができる」として証拠を出そうとしたところ、ウェッブ裁判長の判断で同時通訳が即座に停止され、日本語の速記録には「以下、通訳なし」と記載されたようです。
その背景です。まず第一次世界大戦は違法ではありませんでした(戦争は国家の権利)。その後、1928年に出来た「パリ不戦条約」(日本も調印)では、各国の解釈にばらつきがあったようです。日本は、当該条約調印後も「満州事変」「日中戦争」「太平洋戦争」を起こしています。
1945年ロンドン会議でニュンベルク裁判用として「平和に対する罪(侵略に対する罪)」が提唱され個人の責任も確定しますが、日本の当該各戦争中は、その前の為この罪がなかったことになります。しかし、東京裁判では(同じく終戦を迎えた後に行われたナチスドイツをこの罪で裁いた)「ニュンベルク裁判」を参考にせざる得いないジレンマもあったのかもしれません。特に英連邦や米では。
しかし、日本(他国もあるはず)では、「事後法」という概念があります。これは、当該事象時(戦争中)に成文として存在しない法律を基に罰することが出来ないことのようです。一方、英・米や国際法では、上記の場合でも、「コモン・ロー」(国際慣習法)を前提に刑罰を科することが出来るようです。この違いが根本的に相いれない齟齬を生んだのかも?
結果、各国の判事の考えにも反映され、それが一部の国の判事が出した意見書として表れているのかもしれません。
特にインドのパール(パル)判事は徹底して事後法の矛盾を訴え全員無罪を主張しました。オランダのレーリンク判事も、パール判事の公平性に理解を示し途中から意見を変え、フランスのベルナール判事は一部反対としれこれらの各意見書を提出したようです。↓
◆東京裁判で対象になる罪(A,B,C)
1,平和に対する罪(A級犯罪)
侵略的戦争などの国際法に違反する戦争を計画,準備,開始,実行した行為に対する罪のこと。個人の刑事責任の追及もあります。第二次大戦後に規定され,3の人道に対する罪と合わせて新しい戦争犯罪に追加されました。
2,戦争犯罪(B級犯罪)
通例の戦争犯罪で、国際条約の定める戦闘法規に違反する行為の罪。具体的には降伏者の殺傷、禁止兵器の使用、私人や私船に対する攻撃、捕虜の殺害や虐待、スパイ行為、等です。
3,人道に対する罪(C級犯罪)
一般市民に対して殺害、迫害、拷問などの危害を加えた者に対する犯罪を指します。東京裁判でこの罪を受けたのは士官以下の者に対してがほとんどでした。この罪はホロコースト(ナチスドイツ)に適応されましたが、日本には適応しませんでした。理由は(日本には)特定の民族を絶滅させる意図がなかったためのようです。
◆東京裁判の大まかな流れ
日本の終戦の日に、英・仏・米・ソの4カ国で、国際軍事裁判所条例に調印しました。そこで、平和に対する罪(A)、戦争犯罪(B)、人道に対する罪(C)の罪をそれぞれ規定しました。(1945年8月15日)
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マッカーサーが東京裁判の裁判長や判事を決定しました。(1945年2月15日)
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A級戦犯28名が起訴されました。(1945年4月29日)
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東京裁判が始まりました。(1945年5月3日)
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1年後、日本国憲法が施行されました。(1946年5月3日)
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昭和天皇を不起訴にするとマッカーサーが決めました(と言われています)。(1948年1月8日)
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A級戦犯25人に有罪判決が下されました。(1948年11月11日)
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極東国際軍事裁判所が閉鎖しました。(1948年12月9日)
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7人の絞首刑が実行されました。(1948年12月23日)
(A級戦犯の遺骨の処理について今まで不明でしたが、2021年に公開された米の公文書から、当時、米軍が太平洋に散骨していたことがわかったようです。散骨の理由は場所を特定すると神格化される恐れがあったから、のようです)
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起訴されなかったA級戦犯19名(岸信介元首相も含む)が釈放されました。(1948年12月24日)
画像はありませんが、ある違法実験・研究を行っていた部隊員の多くは、終戦時その詳細な研究資料を隠し持っていたらしいのです。そこで、彼らは戦犯を免れたく、米国が欲しがっていた※その実験・研究の資料を米国に引き渡したともいわれています。結果的に当該部隊の関係者は誰一人として東京裁判の罪には問われなかったようです。
※マッカーサーが厚木に降り立った時に言ったとされるのが「ゼネラル〇〇(部隊長の名前)はどこにいる?」だったそうです。(娘さんの話とのことでした)
ちなみに「溥儀」も東京裁判にかけられ、中国の収容所で囚人番号981を付けた長年の再教育をうけ、最終的には北京の庭師となり生涯を終えました。
■東京裁判に関連する映画「■東京裁判(既出) ■東京裁判(ドラマ)」
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◆日本の反省(秘密裏に行われた反省会)と「統帥権マチガイ」
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戦後35年経った1980年から秘密裏に行われた戦争反省会(天皇直属にいた超エリート集団の方々が出席し130回行われた)のドキュメンタリーを最近、見ました。
反省会は、【「発言者が存命中は、録音(記録)を公表しない取り決め】を前提として行ったとのことで公開が遅れたようです。
見た感想は、開戦当時、戦争絶対反対という強い政府等の声が多くあったにもかかわらず、「統帥権の独立※(以下注釈)を盾に軍が独走してしまった」という印象を受けました。
まずは断片的になってしまいますが、その概要について引用いたします。
佐薙元大佐 日本の国力を検討せず対米戦を行ってしまった
三代元大佐 軍備拡張のために多くの予算を使ってしまったので、今更、戦えないとは言わないことになっていた
日本軍に撤退という選択肢はありません
大井元大佐(礼儀正しい日本人が)何であんなにね 日本の人たちが残酷になったのかと
元中佐 身の程知らずの暴走をやり、ついに日本を破滅に追いこんだ
※統帥権=「戦争を指揮する権限で天皇の大権」
簡単に言うと、内閣等を介入させず、天皇に直属する軍令部のみが(勝手に)戦争を始められる権利。立法、司法、行政の三権の上に立つ超越的な権力で、これが「統帥権の独立」。山県有朋が制度設計したと言われていますが、そもそものきっかけは、やはりビスマルクやドイツ憲法(バイエルンは軍の統帥権を認められていた)の影響らしいです。いろいろ勉強してゆくうちに、日本が十五年戦争を起こしてしまった要因は「統帥権の独立」だと思うようになってきました。最後に統帥権を持ったのは東条英機。東條は刑の執行直前に「統帥権マチガイ」というメモを残していたようです。
我々は山県さんのペン先のように働いた
最後は、「一億総特攻」という選択も
天皇陛下万歳と言ってみんな死んでいった。一人も生きていないんだよ。
東京裁判1(本当のことは何も言うなと 黙っておけ)
東京裁判2(三戸少将は偽証をして守った。これは表向きにしたら えらいことになる)
東京裁判3 豊田元大佐(マッカーサーは) 陛下を 俗な言葉でいえば利用して 占領政策をやりやすいようにすると
東京裁判4(米 フェラーズ軍事秘書官)、(マッカーサーの決定「天皇は必要」に従うべく)天皇に罪がないことにするためには(さらに裁判を滞りなくするためと占領後の混乱を避けるためには)東條に全責任を負担せしめるようにすることだ
マッカーサーと天皇の会見でのやりとりは、マッカーサー回顧録よりも、藤田侍従長の回顧録のほうが正しいのでは、と先生から伺ったので、忘備録としてここに載せておきます。(ただ正確な情報がないので、お詳しい方どうかご教示ください)
まず、天皇の言葉
「敗戦に至った責任が追及されているが、責任はすべて私(天皇)にある。文武百官は、私の任命する所だから、彼等には責任はない。私の一身は、どうなろうと構わない。私はあなた(マッカーサー)にお委せする。この上は、どうか国民が生活に困らぬよう、連合国の援助をお願いしたい」
それを聞いたマッカーサーの反応を侍従長は
「一身を捨てて国民に殉ずるお覚悟を披瀝になると、この天真の流露はマ元帥を強く感動させたようだ」と。
さらに次のようなマッカーサーの発言を記しているようです。
「かつて、戦い敗れた国の元首で、このような言葉を述べられたことは、世界の歴史にも前例のないことと思う」とのことでした。
しかし、藤一利の「昭和史」によると、重臣らに和平を提案された昭和天皇は、「もう一度戦果を挙げてから」と答えたため沖縄戦、原爆投下につながった経緯がある、と書いています。この辺りの事実を知りたい。
個人的に思っていることは、動画で見た天皇の発言「広島への原爆投下も広島市民は気の毒だけど、やむを得なかった」を聞くと、その最後の最後まで反省してはいけないと立場上、思っていたのかもしれない。その後、完全に負けを認めた時点で「自分に責任がある」と考えるようになったのかも??この辺の真相は闇の中かもしれない。
■日本の敗戦に関連する映画
「■日本のいちばん長い日」「■東京裁判」「■マッカーサー」「■日本戦歿学生の手記 きけ、わだつみの声(1950)」「■私は貝になりたい(1959)」「■蟻の兵隊」
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長年、大きな戦争がなかった欧州に「戦争記憶の風化」を原因として安易に発生させてしまった第一次大戦。それは人類がかつて経験したことのない世界大戦に、そしてヒトラーを生み出しました。
ドイツはそれまでビスマルク体制↑で戦争をしないような仕組み(同盟)を作っていました。しかし、その後のヴィルヘルム2世が外交方針を転換しロシアと敵対した頃から、バルカン半島が不穏になりオスマン帝国も手を引きつつありました。するとバルカン半島は民族の自立を求める動きが強まり「「ヨーロッパの火薬庫」に、それがサラエボ事件(セルビア人青年がオーストリア皇太子夫妻を殺害)を発生させることに繋がります。
しかし、以下の事象がなければ思いとどまることが出来た可能性もあったようです。まず、ドイツ議員団の判断ミス(一貫して戦争を反対していたにも拘わらず、50億マルクの軍事予算を通してしまった)事と、一番の要因は、各国とも高齢になった戦争経験者達の「何があって戦争だけはダメ」という意見を聞かなかった事のようです。それにしても最初はオーストリアとセルビアのいざこざだったものが、各国間の同盟が逆効果になり、敵を増やしてしまうことに。結果、その後の世界を「戦争の世紀」にした第一次世界大戦を招いてしまったようです。
ドキュメンタリーで、若者達は戦争を安易に考え、ニコニコしながら「一週間もすればこの戦争は終わる」、と、みんなそう信じていました。乗り込んだ列車にも「これからパリへの小旅行」などと書いてありました。
しかし、上記の通り各国の思惑が入り乱れることになり、この戦争は各国に拡大し(スペイン風邪も含め)ついには世界を巻き込んでゆきます。
さらに、それまで歩兵、騎兵(つまり人や馬)、単発銃だったものが、機関銃や爆弾が多く使われると、その対策で塹壕が掘られることに。すると、またその塹壕対策として戦車、飛行機、毒ガスが登場(毒ガスは後に違法。この毒ガスで若い時のヒトラーが負傷)することになります。最後には米国が参戦したことで同盟国(ドイツ等)は敗れ、1914年から1918年と4年以上続いた世界大戦は終焉を迎えます。
ちなみにこの時の日本は「日英同盟」を理由に協商国(同盟国のドイツとは敵対)に加わり、結果的に漁夫の利を得て中国の山東半島※とドイツ領の南洋諸島等)を奪うことになります。※これが、日本の大陸進出を本格化させた要因ともいわれているようです。
戦争の風化が原因で安易に始めてしまったこの大戦は、後の世界を大きく変える四つの要因を作り出し禍根を現在にも残ることになりました。
◆一つ目はアメリカの台頭です。その理由は、第一次大戦でアメリカは戦場にならず被害も少なく、さらに多額の経済援助各国に対して行い、経済的にも、政治的にも発言力が大変強くなっていったためです。1920年代には工業力でも他国を圧倒し、アメリカは大量生産、大量消費の時代に突入、ここから世界の超大国になってゆきます。
◆二つ目は、レーニンの出現
長期化した大戦に国民の不満が爆発したロシアでは1917年に「パンよこせ」から「戦争反対」「打倒専制」と広がり、「二月(三月)革命」で帝政が終わり、「十月(十一月)革命」でレーニンのもとソヴィエト政権が誕生します(二つの革命の総称がロシア革命)。レーニンはコミンテルン(国際共産主義運動の指導組織で、後にあの金日成も加入)を結成し、ロシアに亡命中の革命家たちを中心に世界中に社会主義・共産主義を広めてゆくことになり、それはスターリンに引き継がれます。その後の冷戦構造から起こった数々の波及も、現在の北朝鮮の影響もこれが大元でした。1000年前から関係が深刻なキエフ公国を踏襲するウクライナとも複雑な利害関係が。
◆三つ目は三枚舌外交の影響です。現在も続く100年の悲劇を作ったパレスチナ・中東問題、数々の内戦、移民問題、テロ(含:9.11)の原因までも作りました。日本の高度成長が終了したものこの三枚舌が起因しています。三枚舌については、最後の方で詳しく記載します。
◆四つ目はヒトラーの出現です。ヒトラーは、第一次大戦中、毒ガスで目を負傷し入院、その時に「ドイツ兵はユダヤ人によって殺された、偉大なドイツを取り戻せ」が頭をよぎり、政治家となる決意をしたようです。その後、ヒトラーは第二次世界大戦を引き起こし世界を恐怖のどん底に、結果的に世界中に6000万〜8500万人の犠牲者を出すことになります。ヒトラーについては、この後、詳しく記載します。
◆追加すると、「帝国主義から国民国家へ」もあるかと思います。
世界は帝国主義から国民国家へと変わってゆきます。合わせて数多くの新興国民国家も誕生しました。この大戦前の欧州の争いは貴族同士の争いで、この戦争のように国民が直接戦争にかかわることもあまりありませんでした。そのため短期戦がメインでした。また、普通選挙が広まったのもこの戦争が影響し、社会保障制度にも影響してゆきます。
■第一次世界大戦関連「■大いなる幻影」「■ジョニーは戦場へ行った」「■戦火の馬」「■1917命をかけた伝令」、、他。
◆第二次大戦のきっかけは?
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ヨーロッパでは、1919年第一次大戦の反省として「パリ講和会議」により「ヴェルサイユ体制(英・仏による独の弱体化の目的)」が誕生します。
※常任理事の5大国(英・仏・伊・日・米)だが米はモンロー主義で未加入。日本も中国への進出で途中脱退。
またアジアでは、1922年、米国による「ワシントン体制(日本の中国進出を抑えることが目的)」が誕生します。
その後、1929年に米国で株価の大暴落が起こり、各国に飛び火し全世界は「世界恐慌」に陥ってしまいます。
米国は、ニューディール政策で(国による経済政策だが成功ではなく、結局は軍需景気で)立て直し、英・仏ではブロック経済(植民地などを利用した閉鎖的経済体制)でやはり立て直します。
しかし、それらを「持たざる国」の日、独、伊(後に日独伊三国同盟)は具体的な対策が出来ませんでした。しかし、民主主義で全員の意見を聞きまとめていたのでは、埒があかないと思ったのでしょう。そこでそれらの国々で始まったのが、超トップダウンによる「独裁※」でした。※日本も226事件をきっかけに実質独裁の道へ。
そんな中、1939年9月1日、ポーランドのグダニスクを親善訪問中のドイツ巡洋艦が、突然ポーランド守備隊に対して砲撃を開始しました。ヒトラーは、ヴェルサイユ条約で失ったドイツ領を回復したく、東方への「生存圏」を拡大する意図があったようです。これによって第二次世界大戦が始まってしまいました。
■第二次世界大戦関連「■戦場にかける橋」「■カサブランカ」「■大脱走」「■イミテーション・ゲーム」「■ダンケルク」「■エセルとアーネスト ふたりの物語」、、他。
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◆悪魔ヒトラーについて
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1889年にオーストリアで生まれ元々は画家を目指していたようでしたが、美術学校の受験に2回失敗し(ここで合格していれば、、、)しばらくは日雇い労働をしていたようです。
ヒトラーの身分証明書(オーストリア人であることがわかります)
その後、オーストリア軍への徴兵を逃れるためドイツへ移住、しかし結局はバイエルン軍として第一次大戦に参戦します。そこでヒトラーは伝令兵として戦場を駆け回っていました。ヒトラーは酒もたばこもやらず劣悪な環境にも不平一つ言わず、兵士としては熱心すぎると周りから言われたほどでした。
この時、伝令兵として味方の窮地を救った功績で認められた「第一級鉄十字勲章」を、ヒトラーは生涯身に着けていました。
ヒトラーは、第一次大戦中、毒ガスで目を負傷し入院。「ドイツ兵はユダヤ人によって殺された」「偉大なドイツを取り戻せ」この二つのことが入院中、常に頭をよぎり、この時、政治家になりドイツを偉大な国家にしたいと決意したようです。
戦後、政界に進出しましたがミュンヘン一揆で投獄され、その中で「我が闘争(人種による能力分け、東方生存権でドイツ領土拡大、ナチを示唆)」を執筆したようです。政界に復帰してからは一気に出世し「ドイツ史上かつてない三権を掌握した絶大な権力(全権委任法)」を持ち※、ナチズム=国家として「ナチス・ドイツ」を作り上げることに。
※次の項の通り敵対勢力(共産・社会)を収容所送りにしたため全権委任法も通りやすかったようです。ヒンデンブルク大統領をただ見ていることしかできない立場にし、「長いナイフの夜」の一か月後、大統領が87歳で死去すると即日、大統領と首相の権限を持つ「総統」となり、国家元首の地位に。
ヒトラーは「第一次大戦で不屈の精神を学び飢えをしのぎ、この地位を勝ち取った」と国民に向かって発信しました。
ここで事実上ドイツの独裁者に。ヒトラーの長年の夢、彼が愛したワーグナーの作品に登場する「リエンツィ」になる夢を叶えたわけです。
■ヒトラー全権掌握前関連「■我が闘争(若き日のアドルフ・ヒトラー)」「■ヒトラー 権力掌握への道」
◆また、裕福なユダヤ人に対して持つアーリア人の嫉妬心を利用し国民を動かす原動力に。しかし、実は、ユダヤ人の有能さを恐れていたのかもしれません。そのためヒトラーは「この社会不安は、自国を持たないユダヤ人が他国と繋がり情報を操作・提供しているためで、ユダヤ人は国を破壊する劣等民族だ」と。
その上「優生学」の名のもとにアーリア人だけを優勢民族とし、ユダヤ人(ロマ人、障害者、一部のスラヴ人、共産・社会主義者、労働組合のリーダーまでも)を徹底的に迫害し収容所に(ニュルンベルク法)どんどん国民を巻き込んでゆくことに。
障害者生徒には4800マルクが、通常生徒には320マルク、優秀な生徒には125マルクしか国の負担が発生しないという理由で障害生徒を迫害。
「長いナイフの夜」4年後の「水晶の夜」をきっかけにユダヤ人に対する略奪・焼却・暴行・逮捕、ユダヤ人の財産はすべて国庫へという法律まで。ついに「T4作戦」へ。
■映画「■善き人」にもその最初のきっかけが。
◆ドイツは、第一次大戦で負った多額の賠償金※で国民すべてが疲弊し失業者が国内にあふれ、さらに、1929年の米国の株価大暴落に端を発した世界恐慌が重なりドイツ国内は大変な状況になっていました。
※ヴェルサイユ条約でドイツの賠償金総額が1320億金マルクに決定。この金額は、当時のドイツの国家予算の何十年分にもあたる金額で純金47,256トン相当。現在の日本円にして約 200兆円。ただ、不思議なのが、このような大恐慌で、且つ大迫害をしておきながらも国民の支持が絶大だったということです。
◆それは何か?ヒトラーの失業者対策が功を奏しました。(当時、列車の時代にこれからは車の時代になると)世界初の高速道路網アウトバーン構想を立て、機械を使わない人手による道路作りの労働を多くの国民に提供。その上を走る国民車として安価な車のちのワーゲン※を作り世界最大の自動車工場※までも建設。移動させるために安価な旅行を提供します。さらに大規模な軍事工場も。国民は増えた収入で次々に家を建てます。その上、労働時間を8時間に、長期休暇、財形貯蓄の制度を整えるようにしたところ、たった3年で600万人いた失業者を完全雇用状態(12万人まで減らした)にしたらしいです。(データの見せ方に一工夫あったようですが)
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※国民車の最初のラフデザインはヒトラー自身が作成し、そのデザインを、ほぼ踏襲し生産されたようです。その工場が現在のフォルクスワーゲン社。
◆疲弊していた国民は「ヒトラーは凄い!!言葉が明瞭で分かりやすく、なんといっても言葉と実行がみごとに伴っている。こんなリーダーを待っていた」と大喜び、道で友人にあうと「ハイル・ヒトラー」と例のポーズを取り合っている一般国民の映像をドキュメンタリーで観て唖然としました。その頃ヒトラーの支持率はなんと90%に。
片や、ユダヤ人達を攻撃するナチの姿を見た一般国民が、自分たちも悪のユダヤを倒そうと手助けをしていた映像にはさらに驚きました。この背景には「集団ヒステリー(ネット市民、マスコミ、ワイドショーが、突然、聖人君子になり徹底的に失敗者を弾圧、、等)」もあると思いました。
◆しかし、その頃ヒトラーは「ユダヤ人大虐殺」をひそかに行い、後々、深い憎しみの連鎖を生むきっかけを作っていました。(迫害は第二次大戦前から。これが6回目?の迫害)
■ホロコースト関連「■シンドラーのリスト」「■夜と霧」「■灰の記憶」「■サラの鍵」「■ライフ・イズ・ビューティフル」「■ソフィーの選択」「■サウルの息子」「■縞模様のパジャマの少年」「■英国のシンドラー(TV)」、、他。
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◆ヒトラーと「群衆心理」について
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ヒトラーが、ギュスターヴ・ル・ボンの「群衆心理※」を愛読していたことが分かり、とても興味を持ちました。ヒトラーはこの心理をうまく利用したのかもしれません。
※「断言(分かり易い言葉を作る)」「反復反復(いつでもどこでも何度でも)」「感染感染(本やメディアが指導者の代わりに)」この3つがキーワード。そして群衆化してしまうと、たとえ最初は疑問に思っていても、だんだん集団と同じ方向に向かうことに心地よささえ感じるようになるらしいのです。例えば、元々は理性のある常識人でも、ある方向性に向かった集団の一人になると、平気で放火・殺人まで。その向かわせ方は、人々が普段無意識に思っている不満や願いを、簡潔な言葉(〇〇という悪を我々の手で倒そう、等)で訴えると、今まで言葉に出来なかった民衆には「そうだ、そうだっ!!」という想いが湧きだし妙な正義感で団結し、いつのまにか電灯の虫のように勝手に集まってくるらしいのです。「一人を騙すより、一万人を騙す方が簡単とも」
上記「感染」の為にヒトラーは映画を活用しました。ヒトラーが魅了された女性の映画監督「レニ・リーフェンシュタール」。ヒトラーを神と崇め、側近たちを美化した映画を数多く制作。ナチ傾倒の過去は都度話題となりながらも、オリンピック映画「オリンピア」を撮影の時、ナチから有色人種の活躍をカットするように指示があっても映像美を理由に彼女はそれに従わなかったようです。その後100歳になっても映画を作る情熱をもち、101歳まで生きました。
ちなみに、民衆から神と崇められていた人でも、信用がなくなったとたん民衆から罵詈雑言を浴びせられ最終的には殺害されてしまうという例も多くあります。フランス革命での「ロベスピエール」がいい例でしょう。
■群衆心理関連の映画「■リチャード・ジュエル」「■ミスト」(国民などはこの心理?)
■集団心理関連の映画「■THE WAVE ウェィヴ」(幹部などはこの心理?)
■ロベスピエール関連の映画「■ダントン」
◆この仕組みが他国に例を見ないヒトラー独自の独裁なのだと思いました。他の独裁のように国民を苦しめたり粛清・虐殺することも少なく、ナチや国民の共通の敵(それがユダヤ)をつくるという独特の方法で、これを「合意独裁」というらしいです。その上、卓越した演説で国民を一気にファンにしてしまいます。この辺は「■さよならアドルフ」にも。
それが高じて、被害者だけでなく、一般市民の犯罪者までも増やしてしまった訳です。これは悪魔の仕業ともいえるでしょう。(この画像はドキュメンタリーからではないですが、裏が取れたため「顔のないヒトラーたち」から。)
ヒトラーは莫大な資金を賄うため、演説会を有料にしたところ、逆に人が人を呼び聴衆が増えたらしいです。これはナチの大きな収入源だったようです。
◆日本とも関係を深めてゆきます。
三国同盟前ですが、1937年には「■新しき土」(ドイツのタイトルは「愛国者たち」)という原節子初主演の日独合作映画を作り、ドイツで行った試写会ではヒトラーやゲッペルスが拍手を送ったそうで、これもドキュメンタリーで観ました。
◆その後ヒトラーは第一次大戦で失った国の資産(領土等)を言葉巧みにどんどん取り戻し、自信と誇りを回復した国民はさらに熱狂。他国からの不満が増えた時には、ドイツ民族が住むズデーテンを最後にもうこれ以上の領土は求めないと宣言しました。それに対して「輝ける平和主義者」と持ち上げた人がおり(後に撤回)一時期ノーベル平和賞の候補にもなったことは事実のようです。
これは、ナチス・ドイツがポーランドに侵攻し第二次大戦が勃発する約8か月前のことです。第二次大戦が始まってからは、イギリス、スペインを除いたほとんどの東西欧州圏を圧倒的な軍事力により手中に収めるわけです。
◆ヒトラーの部下や側近たち
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◆ヒトラーは有能な部下を探し出すことにも長けていたようです。道路はトートに、車はポルシェ※に、宣伝相はゲッペルスに、国防軍はゲーリングに、親衛隊はヒムラー(ホロコーストは彼)に、党幹部はボルマンに、フランス・アフリカはロンメル(砂漠の狐)等に任せていたようです。※その後ポルシェは戦車をつくらされ戦後、収監されました。
ちなみに、宣伝省トップに就いたゲッペルスがドイツの映画人を集めた時に、政治的には敵対するソ連の映画だが「戦艦ポチョムキン」だけはドイツ映画の指針になると演説したらしいです。
ゲッペルスは飛行機での遊説をさせたり、数々の暴動を起こし注目させたり、ヒトラーですら驚くほどの宣伝を考案し、ヒトラーから「ゲッペルス博士」と(対外的には)呼ばれていたほどでした。数々の部下の中でも、最後までヒトラーへの忠誠を貫いたのはゲッペルスだけでした。
■ヒトラーの幹部関連「■ゲッペルスと私」「■ナチスの愛したフェルメール」「■ナチス第三の男」「■ロンメル 〜第3帝国最後の英雄〜」「■パットン大戦車軍団。他にも多くの幹部が。この辺りは「■さよならアドルフ(既出)」「■ブラックブック」にも一部。
◆とは言っても、ヒトラーの命を狙う部下・側近たちがいたことも事実だったようで、小さいものを含めると実に42回の暗殺計画があったようです。行進中の路上、講演会場、会議室、演壇の下、列車、飛行機、鉄橋、、、いたるところに爆薬が仕掛けられ、時には部下が体に爆弾を括り付け自爆テロのような暗殺も計画されました。しかし、すべて直前にヒトラーの予定が変わったり、爆発してもヒトラーはかすり傷だったり、不発だったり、42回とも失敗しています。とにかく悪運が強かったようです。
■打倒・反ヒトラーを掲げる人々「■白バラの祈り ゾフィー・ショル、最期の日々」「■独裁者」「■ヒトラーを殺す42の方法」「■ハンナ・アーレント」
■隠れた人々「■アンネの日記」「■ソハの地下水道」
■逃げ延びた人々「■ふたつの名前を持つ少年」「■あの日あの時、、」「■戦場のピアニスト」「■異端の鳥」「■ヒトラーを欺いた黄色い星」
■フランス(ユダヤ)関連「■黄色い星の子供たち」「■さよなら子供たち」■ロシア(ユダヤ)関連「■オーケストラ!」■アルゼンチン(ユダヤ)関連「■家へ帰ろう」
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◆三国同盟と開戦、そしてドイツ・日本
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「あれは私が言い出したんですからね 三国同盟」
これはドイツ、特にヒトラーに心酔していた、ある駐ドイツ特命全権大使O氏の言葉です。元々、「日本の大陸進出」と「ドイツの領土拡大」とは直接関係のない争いでした。しかし三国同盟でこの2つが結び付き、1年後にはさらに各国に広がり世界大戦になりました。O氏は、東京裁判時、1票差で絞首刑を免れ服役、晩年はひっそりと暮らし「私は、日本を誤った日に導いた人間です」といって亡くなっていったそうです。
三国同盟を知った米国は、厳しい経済制裁を日本に科し、それを境に、日本中から鉄製品がどんどんなくなってゆきました(供出)。その後、独ソ戦が始まりソ連の脅威が和らぐと思った日本は、資源確保の目的で南進し南部仏印(ベトナム等)に軍事基地を作ろうとします。米国はそれに即反応し、在米日本資産の凍結、ついには命綱の石油までも制裁の対象(当時8~9割が米国から輸入、後は備蓄で賄うのみ)になってしまいました。国内は当然反米感情が高まり出します。この南進政策が日本の大失敗だったと言われています。
ノモンハン事件後に設立された「秋丸機関」は、米の総合的な力を日本の20倍以上と会議で伝えたが、出席者は居眠りしていた人も多かったとの事。しかし、近衛は東條からゾルゲ事件などの追求にもあい結局は内閣総辞職。その後、総理になった東條(陸軍大臣、内務大臣も兼務)でさえ開戦回避を願い開戦慎重論者で組閣し、国内の開戦熱を抑えようとしたようです。そもそもの海軍があいまいな態度を取っていた事も要因でした。その後、数度にわたる日米外交交渉が難航しているうちに、「ハル・ノート(大陸からの全面撤兵、三国同盟離脱、他)」が届いてしまいます。数日後、御前会議で日米交渉の打ち切りを決め、今、短期決戦に出ざる得いないと日米開戦の12月8日を迎えます。
日本が真珠湾攻撃で太平洋戦争を起こすと、三国同盟の独・伊も米国に対して宣戦布告し、大変多くの国が参戦することになりました。
上記にも書きましたが、この米国への宣戦布告がヒトラーの最大のミス(独、敗戦の原因)ともいわれているようです。
同じく、英国は、日本の真珠湾に助けられたとも。日本の米国への宣戦布告により独が米国に宣戦布告したため、独は英国に手が回らなくなり、英国への独の上陸はあきらめた。つまり「日本に助けられた」と、英国のドキュメンタリーで伝えていました。
■日独伊三国同盟関連「■ヒトラーに傾倒した男(TV)(既出)」
そんな時ディズニーでは反ナチ映画を作っていました。タイトルは「■総統の顔」(ドナルドダックがヒトラー、ムッソリーニ、昭和天皇の肖像に敬礼する映像もありました)。また、日本を嘲笑した「■東京 Tokyo Jokyo」も。
アメリカでは、ナチから迫害されたアインシュタイン(ユダヤ人)の署名もあり、迫害を逃れた多くのユダヤ人科学者が加わりマンハッタン計画(トップのオッペンハイマーもユダヤ人)で核兵器開発が遂行されました。
■マンハッタン計画関連「■シャドー・メーカーズ」「■デイ・アフター・トリニティー」
◆ブロック経済外の国同士で結んだ同盟(簡単にイタリアから)
まず最初のファシストは、かつてのローマ帝国の威光を取り戻すと「強いイタリア」を掲げて現れたムッソリーニでした。
ヒトラーは最初ムッソリーニへの憧れがあったそうで、何でも真似をしてゆきました。あの「ハイル・ヒトラー」のポーズさえもローマ式敬礼の影響。逆にムッソリーニはヒトラーを「道化師」と馬鹿にしていた時期があったようです。
その後、ムッソリーニはファシスト党内のクーデターで一時失脚しましたが、以前、道化師と馬鹿にしていたヒトラーの命令で救出されました。しかし、枢軸軍の完全な敗戦に伴い再び失脚し銃殺。ミラノ市の広場に吊るされた後、無記名の墓に埋葬されることになりました。
■ムッソリーニ関連「■砂漠のライオン」「■国境は燃えている」「■愛の勝利を ムッソリーニを愛した女」
◆ドイツは、、、
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◆あのダンケルクを含め快進撃だったドイツでさえも、東部戦線でソ連を追い詰めていましたが、やはり冬将軍には勝てず、バグラチオン作戦をきっかけにだんだんと押される展開に。ソ連は女性兵士を(狙撃兵もふくめ)100万人も動員していました。
対ソ連、大戦初のドイツ軍の降伏
■バグラチオン作戦関連「ヨーロッパの解放」
■東部戦線関連「■戦争のはらわた」「■僕の村は戦場だった」「■炎628」「■ひまわり」
■ソ連の女性兵士関連の映画「■レッド・リーコン1942」「■バタリオン ロシア婦人決死隊VSドイツ軍」「■ロシアン・スナイパー」
◆反対の西部戦線は、アメリカ・イギリスを中心とした連合軍(アイゼンハワーが指揮官)とドイツ(ロンメルが指揮官)とによる2年に渡る騙しあいの末、1944年6月6日、連合軍がノルマンディー上陸作戦成功で一気に形成が転換。さらにこの時ヒトラーは愛人エヴァの妹の結婚式でドイツから大分離れた別荘に、ロンメルもそこにいた。この時の一番のドイツの失態は、アイスランドやグリーンランドにあったドイツ軍の気象観測所が連合軍によって破壊されており、上陸の暗号をドイツ軍が解読していたにも関わらず、天候悪化が続くと考え、対策を打たなかったこと。実は、上陸の1日だけは天候が回復する予報があったが上記の理由でドイツ軍は気象を読めていなかった。また、アイゼンハワーはノルマンディーに人口港を作るまでの執拗だったことも。ついに、パリはついに4年間のヒトラー支配から解放されました。
■西部戦線関連「■西部戦線異状なし」「■ダンケルク」
■ノルマンディー上陸関連「■史上最大の作戦」「■プライベート・ライアン」
■パリ解放関連「■パリは燃えているか」「■愛と哀しみのボレロ」
ドイツの戦力低下を支えたのが、10歳以上で加入が義務付けられヒトラーが作り育てた「ヒトラーユーゲント」↑達でした。しかし、非常に忠誠心の強い彼らもベルリンの戦いでは多くの犠牲者を出すことになりました。
◆ヒトラーは、すでに勝ち目がないとわかっており壁の厚さが5mもある地下壕に籠り指揮を執っていました。しかし、ベルリンの戦いの頃には、外の瓦礫を見ないようにし、形勢不利や負け戦の話を一切、避けるようになっていたことをドキュメンタリーで観ました。誰もが服従・崇拝していたあのヒトラーも最後を意識してからは、迷走しはじめ、暗殺未遂、裏切りによる猜疑心も強くなり、ナチ内部は崩れ始めたようです。
そんな頃、ヒトラーは愛人エヴァを地下壕に呼び、ささやかな結婚式を挙げ、その後、二人で命を絶ちました。
ヒトラーが肌身離さず持っていた母の肖像。地下壕で最期を迎える時も持っていたとのことでした。
■ヒトラー暗殺関連「■ヒトラー暗殺、13分の誤算」
■ベルリンの戦いに関連「■ブリキの太鼓」
■ヒトラーの最後に関連「■ヒトラー 〜最期の12日間〜」
◆日本は、、、
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◆残りの日本は、真珠湾攻撃の半年後、ミッドウェイ海戦ではすでに暗号を解読されており、複数の主力空母や多くのベテランパイロット、大多数の戦闘機を失い大打撃を。にもかかわらずその失敗は箝口令が敷かれ誰も責任を取らず真相は封印。続けてガダルカナル撤退、アッツ島玉砕。
大本営はことごとく情報を改竄「損害は5分の一、戦果は6倍」発表、一般国民はそのまま鵜吞みにし喜んでいました。
しかし国内は資源不足が激しくなり、東南アジアに活路を求めることに。それが「大東亜共栄圏」。最初は(フィリピン以外では)歓迎されましたが、実態は違ってゆきました。
そんな中での学徒出陣↓
旧制中学は予科練へ↓
「志願しろ。したくなければ理由を言え」
これは磯野さんという方のお話です。すでに戦況怪しい時期、若い将校が磯野さんの旧制中学校を訪れ、生徒たちに予科練への入隊を迫ったとのことです。ほとんどの生徒が入隊し、その多くが特攻で亡くなられました。磯野さんももちろん入隊しましたが、運よく出撃前に終戦になったとのことでした。
そんな状況でも東條首相は「敵は焦っている。今が攻め時」と国会答弁。しかし、サイパン、グァムも玉砕、一部善戦しながらもほとんどの戦いでことごとく負け続け犠牲者は膨大な数に。少年戦車兵も全滅。空も陸も圧倒的な米国の戦力の前には無力と化してしまったようです。資源のない日本にとって頼みの綱だった海上輸送船も次々に撃沈され徹底した兵糧攻め。さらに東京大空襲(皆殺しのルメイのB29焼夷弾33万発無差別攻撃、その後ルメイはこの功績により国から称えられます)、沖縄上陸、本土(ほぼ全国の都市200以上が)空襲・じゅうたん爆撃。民間人も含めた数多くの犠牲者を出し続けしまうことになってしまいました。
ついには世界でも類を見ない「特攻」↓まで行うことに。
◆そこで疑問が湧きます。軍部が、そんな状況でもかたくなに降伏しなかったのは何故? 原爆を落とされるまでは勝てると思っていた? そんな状態で一億総特攻・一億玉砕とは国民の尊い命をどう思っていた? 以前こうした質問を海外の方から立て続けにされたとき自分は何も反論できませんでした。日本人として、日本にも何か言い分はあると強く思いたいのですが、、。やはり結論としては、軍部への「統帥権(天皇の大権)独立」の責任が大き過ぎたと思っています。
■日本の連敗に関連「■ミッドウェイ」「■硫黄島からの手紙」■大東亜共栄圏関連「■東洋の凱歌」 ■落下傘部隊関連「■空の神兵」 ■沖縄戦関連「■ハクソー・リッジ」 ■本土空爆関連「■君の名は」「■ガラスのうさぎ」「■戦争と青春」 ■原爆関連「■ひろしま」「■はだしのゲン」「■黒い雨」「■八月の狂詩曲」「■夕凪の街 桜の国」「■父と暮らせば」「■この世界の片隅に」
■統帥権独立が影響「■太陽の帝国」「■鬼が来た」「■黒い太陽」「■支那の夜」「■ラストエンペラー」
◆少し話がそれますが、
日本が起こした十五年戦争(満州事変からポツダム宣言受諾までの実質13年11カ月)の原因は統帥権の独立にあるのではと思っています。さらに、その前の日清(朝鮮半島の支配に起因)・日露戦争(ロシアの南下に起因)の原因は、ビスマルクによるものだとも。ビスマルクは日本の岩倉使節団に対して「貴方がたも万国公法を気にするより、富国強兵を行うべき。さもなければ植民地化の波に飲み込まれるだろう(法など気にせずに、経済と軍事力を増やさないと、他の大国に侵略されてしまう)」と法律を気にしていた団員に説いたようです。
それを聞いた大久保利通は「新興国家ヲ経営スルニハ、ビスマルク侯ノ如クアルベシ。我、大イニウナズク」と書いて、ビスマルクを大先生と呼んで慕っていったようです。その考えが後の日本を外国に対して好戦的にしてしまった原因という方もおられます。特に最初の日清戦争では、遼東半島・台湾・澎湖諸島の割譲や2億両という莫大な賠償金を得たことで国民からも絶大の支持が。それに気分を良くし、その次も、という考えで安易に日露戦に進んだ可能性もあるとも言われています。
満州事変から3年後の日本。「日本を見習おう」というドイツのニュースからです。
■日清戦争関連「■坂の上の雲」 ■日露戦争関連「■二百三高地」
■十五年戦争関連「■日本鬼子 日中15年戦争・元皇軍兵士の告白」
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◆日本とドイツの敗戦後
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◆日本の敗戦後
最終的に日本には原爆を落とされ、ついにポツダム宣言で無条件降伏を受け入れ、玉音放送で終戦(日本国内では)を迎えることになります。日本の大陸進出を原因に始まった太平洋戦争もやっと終わりました。
その後、ソ連の侵攻(シベリア抑留)、マッカーサー来日、米艦ミズーリ号で降伏文書に調印(ペリー来航時の米国旗を掲げる。これが世界的に見た終戦)、日本国憲法公布、極東国際軍事裁判(東京裁判)と続きます。
1,マッカーサー、日本国民に食料や医薬品を支給※しよう。
この対応は吉田茂が組閣を遅れさせた為ともいわれているようです(組閣を遅らせ無政府状態にしておくと、食料医療不足はマッカーサーの責任になるため)
2,ソ連は米国に対して日本の分割統治を強く求めましたが、マッカーサーがこれを拒否したとのことでした。
3,マッカーサーによれば、幣原総理が「戦争の放棄」を米国に依頼したとのこと。理由は統帥権独立への反省から。ただ憲法草案に入れたのは米国とのことでした。
(1〜3については、ドキュメンタリーからではないですが、その裏取りが出来たため、映画マッカーサーから画像を載せました)
※LARA(アジア救済連盟)物資の助けも大きかったようです。米国の各慈善団体や在米日本人から送ったいただいたものが多かったようです。
◆GHQの五大改革
・選挙制度の改正:女性参政権がはじめて認可。
・財閥解体:三井、三菱、住友、安田の四大財閥などの解体、過度経済力集中排除法の制定。
・農地改革:地主制度の解体と小作農の解放、自作農の創設。
・教育改革:教育勅語の廃止。教育基本法の制定。6・3・3制の単線型教育。男女共学に。
・国家神道の廃止:「神道指令」により神社は宗教法人へ。
また、ヒトラーが嫌った共産圏、スターリン子飼の「金日成」がソ連から朝鮮に姿を現すのもこの頃です。朝鮮戦争では、やはりマッカーサーが司令官として再登場し、ノルマンディーばりの上陸作戦で大勝。北朝鮮を追いやります。しかし、中国の反撃があったため、マッカーサーはそこで「原爆」を使おうとしますが、トルーマンに反対され、かつその要因での「老兵は死なず、ただ、、」を残して解雇されます。理由はその時点ですでにソ連が原爆を有しており、場合によっては米ソの第三次世界大戦を引き起こす可能性があったためです。
そんな中、日本は、「吉田茂」が結んだ「サンフランシスコ平和条約」で敗戦後から丸六年で独立し、「日米安全保障条約」で安全保障を米国に委ね、「軽武装・経済優先」で戦後の日本を立て直すことになります。
その後、「岸信介」が「新安保(共同防衛)」を国会で強行採決、且つ岸が東條内閣の閣僚だったこともあり、戦後最大の国民運動「60年安保闘争」に発展し退陣。
さらにその後は、吉田学校出身の「池田勇人」が総理となり、「所得倍増計画」や彼の最後の仕事「東京オリンピック」で高度成長路線を突き進んでゆきます。この高度成長路線は(3枚舌外交に起因した)第四次中東戦争によるオイルショック(1973年)で終わることになり、今に続いています。
■終戦関連「■日本のいちばん長い日(既出)」「■マッカーサー(既出)」「■東京裁判(既出)」「■私は貝になりたい(1959)(既出)」、、他。
■満州・ソ連侵攻・シベリア抑留関連「■赤い月」「■どこにもない国(TV)」「■流れる星は生きている」「■異国の丘」「■祖父の日記帳と私のビデオノート」
■終戦後の日本関連「■人間の証明」「■野良犬」「■酔いどれ天使」「■渋谷物語」「■肉体の門」「■ヨコハマメリー」「■マッカーサー(既出)」「■蟻の兵隊(既出)」「小説吉田学校」、、他。
■米国日系移民関連「■ヒマラヤ杉に降る雪」
◆ドイツの敗戦後
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ドイツでは敗戦後、ホロコーストの実態が連合軍によりあからさまにされると、その死体処理をあえてドイツ人にやらせたようです。そして生き残ったユダヤ人収容者に対してドイツ人達は「こんなことが起こっていたなんて、私たちは知らなかった」と泣きながら詫びました。
するとユダヤ人たちは口々に「いいえ、あなたたちは 知っていた」と。
これをドキュメンタリーで観た時、罪を作る構造の深さをつくづく考えるようになりました。
◆現在のドイツでは、教育機関、政府、司法、もちろんメディアまでもが一体となって、ホロコーストの犯罪を忘れず許さず、またその事実が風化しないために、若い世代に伝えるこを使命にしているようです。そして、街中のユダヤ人住居跡に、被害者の名前と殺害された日を記載。教室で手を上げる時には、ハイル・ヒトラーを想像させないよう指を立てる。言論の自由は当然守られていますが、ナチ賛美は厳しく取り締まり法律違反、ホロコーストの存在否定だけでも罰金刑です。中東の難民を多く受け入れたのも、これらの反省からということを何かで読んだことがあります。理由は、この悲劇は決してヒトラーだけが起こしたものではないということを未来永劫忘れないため、とのことでした。にもかかわらず未だに「ホロコーストはなかった」という方々もおられるようです。
■ヒトラーの裁判関連「■顔のないヒトラーたち」「■否定と肯定」
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◆大戦後の世界
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◆ヒトラードイツの崩壊後、運よく生き残れたユダヤ人科学者達は,
米・ソの「ナチスドイツの頭脳争奪戦」の末、最初にソ連、遅れて米国と、それぞれの国に渡り、米・ソが喉から手が出るほど欲しがっていた、「V2ロケット」(後に大陸間弾道弾へと発展)、「核」(ウラン235の原子核に中性子を衝突させてるととんでもないエネルギーが発生、後に核兵器へと発展)他の各種技術の伝承することになりました。その後、1945年に米国は核実験を成功※させ、その4年後にソ連も同じく成功させます。「■草原の実験」
※トリニティ実験(1945年7月16日)により世界初の核実験が行われ、実験の成功は、ポツダム会談が始まる直前のトルーマンに電報で「待望の赤ん坊が無事生まれた」と知らされました。アインシュタインの相対性理論の発表から40年後でした。
◆ユダヤ人のオッペンハイマーは、原子爆弾開発が成功したその時、ヒンドゥー教の一節「我は死神なり、世界の破壊者なり」が頭に浮かび、核兵器開発を主導した事を後悔したと、また、その場にいた科学者の誰もがただ押し黙って下を向いていたと、ドキュメンタリーで(生のオッペンハイマーの声と映像で)見、聞くことになりました。
その3週間後、リトルボーイはB29のエノラゲイに積まれ広島に落とされました。「■シャドー・メーカーズ(既出)」
◆また、同じくユダヤ人のアインシュタインは、日本に原爆が落とされたと聞いた時、「ああ、なんということを!!」と叫んだとされています。
さらに戦後アインシュタインは、ノーベル賞を受賞した湯川秀樹の米国の研究室を訪れ、湯川の手を握り涙ながらに肩を震わせ「罪もない広島・長崎の人たちを、、、」と、核兵器開発に与えた自分の影響を謝罪したことをドキュメンタリーで見ました。そのことから、アインシュタインは最後まで核兵器廃絶を進言し続け、米国から疎まれ、彼の葬儀は家族やわずかな友人だけでひっそりと行われたこともドキュメンタリーで見ました。
しかし、その後も、米ソの核実験は水爆も含め続き、すでに1800回を超えています。「■第五福竜丸」
◆いずれにしても原子爆弾は開発されただけでなく、実際に使われてしまった訳です。その結果1962年のキューバ危機では、ルメイ(日本本土空爆を計画・実行した「皆殺しのルメイ」)が、「ソ連全土に対してヒロシマ型原爆45万個分を投下する以外に方法はない」と強くケネディに進言しました。しかしケネディはそれを断固として受け付けず海上封鎖で事なきを得たことがあります。
ドキュメンタリーでの二人の会話、特にルメイの「それ以外に方法はありません。あなたは今、絶体絶命なんですよ。大統領、、、」という進言を聞いて空恐ろしくなりました。もし、ケネディが承諾していたら、米ソ相互の核攻撃が始まり、各国も巻き込んだ核による第三次世界大戦になったいたことは確実でした。また、両国の情報の行き違いで寸でのところで核ミサイルが発射されてしまうことも。しかし、部下の冷静な判断で未然に収まったこともあった。結果的にソ連はキューバのミサイルを、米国はソ連を狙ったトルコの核ミサイルをそれぞれ撤去することで合意したらしい。地球を滅ぼしてしまうような大戦でも、トップの判断一つで決まってしまうこの恐ろしさに身の毛がよだつ思いが。しかし、翌年がダラスの悲劇でした。
■キューバ危機関連「■13デイズ」「■博士の異常な愛情・・・」「■五月の七日間」
■ケネディ暗殺関連「■JFK」「■ダラスの熱い日」
◆ドキュメンタリーで観た、ヒトラーが自決する最期の時に秘書に言ったとされる「このファシズムは私と共に消え去る、だが100年後には新たな思想のファシズムが生まれるだろう」という言葉は印象的でした。
◆「戦争記憶の風化」及びヒトラー、日本のまとめ
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◆第一次大戦がヒトラーを生み、ヒトラーが第二次大戦のきっかけを作り全世界が戦争の影響を受けたわけです。その大元になった第一次大戦は「戦争記憶の風化」から生まれたとドキュメンタリーで知りました。つまり、その頃にはすでに戦争を経験した人々が高齢になり、且つ経験者の意見も聞かなかったことが、安易に開戦させた要因とのことです。その為、最初に言及したとおり第一次大戦に参加した兵士たちはニコニコしながら一週間程度で帰れるだろうと誰しも軽く思っていたと、そのドキュメンタリーで観て驚きました。
◆実は、以前、自分の祖父、親、親族、そして先生からお盆の集まりの時に言われたことがあります、「国から人殺しを命令され当たり前のように従ってしまった自分達、空襲で親兄弟を殺され逃げ惑った自分達、芋がらや草までも食べて生き抜いた自分達。この経験を何が何でも伝えてゆかないといつのまにか風化して世の中から消えてしまうのではないか」と、さらに「戦後何十年経った今でも毎日のように戦争中のことが脳裏に浮かび、時には恐ろしいほど鮮明な〇〇〇(リアル過ぎて書けないので伏字にします)の夢にうなされる。お前は戦争を知らないが、風化だけはさせないで欲しい」と。
はからずも「風化の恐怖」を歴史と親達の言葉から知ったことは驚きとともに深く焼き付けられました。
その後、自分の大好きな「映画」には、反戦を声高に叫ぶよりはるかに大きい価値があり、場合によっては「風化」させないための少ない選択の一つかもしれないと思うようになりました。
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◆第一次大戦が起こした三枚舌外交
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1,英はアラブ人に独自の国家をパレスチナに作ると嘘を(フセイン・マクマホン協定)
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1,英はアラブ人に独自の国家をパレスチナに作ると嘘を(フセイン・マクマホン協定)
反故のあとは反オスマンで同じ陣営だったフランスがいきなりアラブに銃を向け攻撃開始、その後のアラブ地区非対称戦争のきっかけに。
2,英のシオニズム支持表明(バルフォア宣言)
つまりパレスチナにユダヤ人居住地の建設(それがイスラエル)を賛意することに。目的はライオネル・ロスチャイルドなどのユダヤ人大富豪から戦争資金を引き出すことでしょう。(バルフォア宣言)その後「イスラエル対パレスチナ」の大混乱が始まり結局は両者とも被害者に。
3,オスマンの領地を英、仏(露も)で分け、パレスチナは国際管理に(サイクス・ピコ協定)
その後、勝手に引いた国境が独裁政権となり、国民、近隣国、大国の軍事介入等による争いは絶えず1,2も含め貧困、難民が増え続けることに。
◆結果的に上記のそれぞれ同時に対応できない無責任な三枚舌外交を展開(マクマホン、バルフォア、サイクス、ピコ全員がロスチャイルド一族のユダヤ人)。戦後、どうにも収拾がつかなくなった英国は、国連に依頼することになり、依頼された国連は2でユダヤ人に多くの土地を与え、イスラエルという国家まで樹立させました(国連を仕切ってた米国ではユダヤ人富裕層が中枢を握っていたからとも)。
この無責任な対応が不毛な4回にも及ぶ中東戦争、湾岸戦争以外にも80を超える戦争・内乱の原因・遠因を作り、膨大な数の難民や深刻な貧困を生むことに、近年は欧州にも大きな影響を与えることになりました。
また、日本の戦後1955年から1973年まで続いた日本の高度成長路線(成長率年平均10%を越えという、諸外国にも例を見ない急速な経済成長)が途絶えたのも、この第四次中東戦争によっておきたオイルショックがきっかけになっています。
■中東戦争関連「■ハート・ロッカー」「■アメリカン・スナイパー」「■ゼロ・ダーク・サーティ」、、他。
■湾岸戦争関連「■戦火の勇気」「■ガルフ・ウォー」「■戦場でワルツを」
◆本来、国境を持たないアラブ人達は、勝手に国を作られ(片や、やっと国を持て)、国境線を一方的に引かれ、先祖代々の土地を奪われ、中には追い出され、近年は神聖な宗教の名を借りただけの集団も増え、先の見えない憎しみの抗争に発展していったという構図です。その争いに必要な大量兵器は大国にとって不可欠なドル箱。つまり終わらない悪の均衡が続くことに。
三枚舌外交とその後の対応は100年の悲劇を生み出し、ついにはあの9.11の遠因※にもなってしまった訳なのです。
※三枚舌でオスマン帝国の一部をクウェートとして独立させたことが、その後の湾岸戦争のきっかけを作り、ビン・ラディンは、湾岸戦争以降も中東に米軍が駐留しているのを非常に憤慨していたことから。
■9.11関連「■ユナイテッド93」「■ワールド・トレード・センター」「■9.11〜N.Y.同時多発テロ衝撃の真実」「■ホース・ソルジャー」「■ゼロ・ダーク・サティ」
■三枚舌外交自体が舞台「■アラビアのロレンス」
■三枚舌から起因した事象「■ミュンヘン(既出)」「■希望のかなた」「■判決、ふたつの希望」「■存在のない子供たち」「■娘は戦場で生まれた」「■壊された5つのカメラパセチナ・ビリンの叫び」「■シリアの花嫁」、、、
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◆ユダヤ人とは(紀元前から数々の争い・迫害+有能なユダヤ人)
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◆ユダヤ人とは
まず「ユダヤ人」と言われる方々の定義については、ユダヤの血統を持った方を指してるとか、ユダヤ教の信者の方を指すとかいろいろな説があるようです。「◆2種のユダヤ人」のところでその背景に少し触れています。
一般的に言われている「元をたどれば」の大元は、まず、アダムとイブの子孫。そのさらに子孫であるノアの後のアブラハムが、カナンの地(エルサレム)をヤハウェ(神)から与えられたことに始まるようです。そこで安住することになった彼らのさらなる子孫ユダヤの12部族(ヤコブの子孫たちでウチ10部族は不明。残った2部族の一つがユダ族)が直接の先祖とされているようです。これらの事は旧約聖書の最初の書である創世記に記載されているとのこと。読んでないのでわからないのですが、自分が調べた限りではそうでした。この辺は「■天地創造」にも一部。
その後も、ユダヤ人(当時はヘブライ人)は、カナンの地で遊牧生活を続けましたが、飢饉のためカナンから古代エジプトに集団移住することに。しかし、彼らは、よそ者のため奴隷として酷い扱いを受けたようです(これが最初?のユダヤ人の迫害)。それに耐えられず、モーセ(3宗教で最重要な預言者)の「出エジプト」により、元の「約束の地 カナン」(モーセ五書の創世記に [わたしはあなたの子孫にこの地を与えます] とある)を目指し40年以上もの間荒野を彷徨うことに。伝説では途中、紅海が割れ現れた道によりエジプトから無事逃げることが出来たり(この辺は「■ミュンヘン」のセリフの中にも出てきました)、モーセがシナイ山でヤハウェから「十戒」を受けたといわれています。モーセの十戒の最初の一文「主が唯一の神であること」が一神教として現在にも大きく影響しているのでしょう。「■十戒」「■プリンス・オブ・エジプト」
その後、紆余曲折を経てダビデがイスラエル(ヘブライ)王国を作り、その子ソロモンによりソロモン神殿も作られ大変繁栄したようです。
時は経ちローマ帝国の配下(属州※)にいた彼らは、1世紀頃その圧制を逃れるため「ユダヤ戦争」を起こしましたが、それに敗れ各国に離散し、国を持てない民族になってしまったようです(結果的にこれが2回目?のユダヤ人迫害)。ユダヤ戦争で壊されたエルサレムの神殿(一度、壊されているのでヘロデの第二神殿)の遺構(西側の壁)があり、そこが現在の嘆きの壁となっています。
◆イエスとの関係(エルサレムにはマリアが)
※この属州時代にあのマリア「■イントレランス(の揺り篭を揺らす女性=リリアン・ギッシュ)」がおり、大天使ガブリエルから受胎を告知され、その子がイエス(キリスト=救世主)。ユダヤ教徒であったイエスが後に新しい考え方(ユダヤ教徒でなくても神を信じる者は救われる、大切なのは愛。つまりユダヤ批判)をしたため犯罪者とされ、死刑の権限がないユダヤ教指導者からローマ帝国に渡されエルサレムで磔処刑。「■パッション」
しかし、その考え方は弟子たちにより各地に広められキリスト教になっていったようです。その後、ローマ皇帝(暴君)ネロによりキリスト教が激しく弾圧されましたが、信じる人達の強い想いを止められず、4世紀にはキリスト教がローマ帝国の国教に、それをきっかけにヨーロッパ全土にキリスト教が広がっていったようです。対してユダヤ教徒はイエス殺しの罪深き民と決めつけられまた迫害。これが紀元後に訪れた3回目?のユダヤ人迫害でした。
◆エルサレムは3種ある一神教の聖地
エルサレムには、上記の通りユダヤ教徒がカナンの地に建てたソロモン神殿の跡地があり、イエスが処刑された場所で且つイエスの墓(聖墳墓)もあり、イスラム教の預言者ムハンマドがガブリエルに伴われエルサレムの神殿上の岩から昇天した岩(今はドームで囲われている)もある地です。そのため3宗教の聖地になっています(現在は国連が管理)。また、一神教として同じ神のことを、ユダヤ教ではヤハウェ、キリスト教ではゴッド、イスラム教ではアッラーとそれぞれ呼んでいます。また経典は、ユダヤ教では聖書(キリスト教にとっては旧約聖書)、キリスト教では旧・新約聖書、イスラム教では旧・新約聖書も含めメインはコーラン、とそれぞれなっているのかと思います。さらに、モーセはユダヤ教と他2宗教の預言者、イエスはクリスチャンにとって神の子や救世主(時には預言者とも)、ムハンマドはムスリムにとってモーセもイエスも含め最後の預言者と呼ばれているようです。ちなみにエルサレムに「アルメニア人地区」があるのは、アルメニアが最初にキリスト教を国教にした国だからとのこと。
◆エルサレムへの十字軍からの攻撃
このエルサレムは、その後ビザンツ領土となり、イスラム教のセルジューク朝に占領されることに。そこでビザンツはローマ教皇に助けを求め、11世紀後半から約200年間(1096〜1272)、西ヨーロッパのキリスト教諸国と協力した十字軍により聖地奪還を旗印にエルサレムは攻め続けられました。とは言っても十字軍は途中から目的不明に、時には悪の集団に、ついに教皇の権威も失墜してしまいました。
しかし、十字軍も悪いことばかりではなく、イスラム・ビザンツ文化の影響として、香辛料,絹織物,医学、数学、果ては貿易、貨幣経済などが広がり各地に中世都市を作らせました。ある意味カール大帝やオットー一世が原型を作った西ヨーロッパの発展に大きく寄与したことになります。
「■バルト・キングダム」「■キングダム・オブ・ヘブン」「■ロビン・フッド」にも。
◆2種のユダヤ人
ユダヤ人に関して個人的に不思議に思っていることがあります。それは白人のユダヤ人が多いということ。
そこで知り合いの先生に聞いたところ、元々のユダヤ人はヘブライ民族(イエスも含めた中東系)の容姿だったが、9世紀以降、白人のユダヤ人が一気に増え出したとのこと。その理由は、コーカサス辺りにハザールという有能な白人の王国があり、その国が9世紀初頭のオバデア王の国政改革でユダヤ教に集団改宗したことが原因という説があるとのこと。その後ハザール王国は周辺国の襲撃に遭い滅亡し人々は東欧各地に離散、アシュケナージ系ユダヤ人(白人系のユダヤ人で全体の80%がこの方々)として国家を持たない民族になっていったという説があるとのことでした。つまり白系ユダヤ人のご先祖はコーカサス付近にあるようです。(しかしこの説は専門家からは否定されているという話も聞きました)
片や中東系のユダヤ人をスファラディ系と呼んでいるらしく、この二系統はあまり活発な交流をしていないとのことでした。このことが「ユダヤ教徒=ユダヤ人」という構図が生まれた要因かと思いました。これが正しいなら4回目?のユダヤ人迫害。
◆有能なアシュケナージ系ユダヤ人
しかし、分かっている事実としては、今から六百数十年前にヨーロッパでペストが大流行した時、ユダヤ人たちは裕福で衛生的でもあり(ユダヤの教義では倹約、勤勉、清潔などがある)ペストの被害が他の民族よりは少なかったようです。その為、ペストの原因はユダヤ人だと非難され酷い迫害を受けることに。この時にもユダヤ人の大虐殺があったようです(これが5回目?のユダヤ人迫害)。そんな時ポーランドのカジミェシュ大王が、モンゴルの襲撃による街の破壊と人口減少を賄おうと、クラクフという都市に優秀なユダヤ人達を大量に受け入れる政策を取ったようです。ユダヤ人達は迫害の中、無一文でやってきたにもかかわらず、その類まれな有能さで土地や資源を必要としない金融業※・医者・研究者をはじめ各方面でどんどん成功者を出してゆきました。それを知った周辺の国民達(アーリア人と呼ばれるヨーロッパ人)は密かな嫉妬を覚えていたようです。※キリスト教では利子は認められておらず、それを行ったユダヤ人は蔑まれていたことを考えると皮肉です。とは言っても、あれだけ虐殺されてしまっても、全世界の金融を牛耳る中心人物の多くが、ノーベル賞受賞者の3人に1人が、ハリウッドのビック5の映画会社すべてが、多くの監督、俳優、歌手が、グーグル、フェイスブック、オラクル、デル、マクドナルド、トイザらス、デポ、リーバイス、シトロエンの創業者が、他にもマルクス、アインシュタイン、フロイト、ノイマン、ドラッカー、オッペンハイマー、アシモフ、ピュリッツァー、、、他多数が、それぞれアシュケナージユダヤ系ということは事実なようです。この要因は「タルムード」という人もいます。
以上、、、楽しい内容ではなく、また短くまとめられず、すみませんでした。
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